伝記
ロサリン・サスマン・ヤローは、1921年7月19日にニューヨーク市のブロンクスで、サイモン・サスマンとクララ・ジッパーの娘として生まれたアメリカ合衆国の医学物理学者である。ユダヤ系の家庭で育った。ワルデン高校に進み、物理学に興味を持った。高校卒業後は、授業料が無料の女子大学であるハンター校に入った。母は娘が教師になることを望んでいたが、本人は物理学を学ぶ道を選んだ。
タイプライターを打てたことから、コロンビア大学の内科外科大学で生化学の第一人者であったルドルフ・ショーエンハイマーの秘書の仕事を得た。しかし、女性に財政的な支援をしてくれる大学院はないだろうと考え、速記を学ぶことを条件に、同じコロンビア大学の生化学者マイケル・ハイデルベルガーの秘書になった。1941年1月にハンター校を卒業した。第二次世界大戦が近づいて男性が徴兵されたことでポストに空きができ、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の物理学の指導助手に採用された。同大学で、1917年以来初めての女性であり、約400人の部局の構成員の中で唯一の女性だった。男性の候補者が足りなかったおかげで名門の大学院に入れたと本人は考えていたが、才能に気づいた周囲の男性たちが励まし、支えてくれたともされる。1943年6月には、同じ学生でラビの息子であるアーロン・ヤローと結婚し、二人の子をもうけた。1945年に博士号を取得した。
卒業後の最初の仕事は、連邦通信研究所の電気技師補で、ここでも女性は一人だけだった。1946年にはハンター校に戻って物理学を教え、のちに名を成すミルドレッド・ドレッセルハウスら多くの女性に影響を与えた。その後ブロンクスの病院に勤め、放射線医学部門の立ち上げに加わった。ここでソロモン・バーソンと共同で、血液中の極めて少量の物質を検出できる放射性同位体追跡の技術を開発した。これが放射免疫測定法である。最初は糖尿病患者のインスリン濃度の測定に使われたが、のちにホルモンやビタミン、酵素など、それまで少なすぎて測れなかった多様な物質の測定に使われるようになった。商業的な可能性が大きかったにもかかわらず、ヤローとバーソンは特許を取らなかった。
1968年にはマウントサイナイ医科大学の教授に迎えられ、のちに同大学のディスティングイッシュト・プロフェッサーとなった。1972年にディクソン賞医学部門とフレッド・コンラッド・コッホ賞、1975年にアメリカ医学会の科学賞、1976年にはアルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受け、この賞の初の女性受賞者となった。1977年には、放射免疫測定技術の開発により、ロジェ・ギルマン、アンドリュー・シャリーとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。ゲルティ・コリに次ぐ二人目の女性受賞者であり、アメリカ生まれの女性としては初めてであった。1988年にはアメリカ国家科学賞も受けている。
女性科学者の団体には距離を置き、そうした団体は女性が男性と違う扱いを受ける必要があると考えている表れだとして、賛成しないと語ったと伝えられる。一方で、真の科学者になりうる若い女性を見放すことはなかったという。最初にブロンクスで勤めたときに購入したリバーデイルの自宅に、晩年まで住んでいた。2011年5月30日にブロンクスで亡くなった。89歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- ウォーレン・クリストファー (2011年没)
- ウォルター・ブルーニング (2011年没)
- 松田直樹 (2011年没)
- バート・ヤンシュ (2011年没)
- エリザベート・ド・リュクサンブール (1922-2011) (2011年没)
同じ地域に関係する人物
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