伝記
源義朝は、平安時代後期の武将で、河内源氏の六代目棟梁である。1123年、源為義の長男として生まれ、母は藤原忠清の娘であった。曾祖父の八幡太郎義家の死後、河内源氏は一族の内紛で都での地位を落とし、父の為義も白河院の信頼を失って、官位は低迷していた。義朝は少年のころ都から東国へ下り、為義が伝領していた安房国の丸御厨に移り住んだ。のち上総国に移って有力豪族の上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。
東国で育った義朝は、南関東に勢力を伸ばし、三浦義明や大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収め、東国の主要な武士団を率いるようになった。居館を鎌倉の亀ヶ谷に移し、1141年には長男の義平が生まれ、波多野義通の妹との間には次男の朝長ももうけた。大叔父の義国とは勢力が競合して対立したが、のちに同盟を結び、義国の嫡男義康と相婿となった。20代前半で南関東の武士団を率いる地位を確立し、その活躍は都にも知られた。義平に東国を任せて都へ戻ると、1147年に、正室の由良御前(熱田大宮司藤原季範の娘)との間に、三男で嫡男の頼朝が生まれた。1153年、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。河内源氏が受領となるのは、祖父義親以来50年ぶりであった。1155年には、東国で勢力を伸ばしていた次弟の義賢を義平に討たせ(大蔵合戦)、父為義との関係は修復できないものになった。
1156年7月の保元の乱で、義朝は崇徳院方についた為義や弟の頼賢、為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国の武士団を率いて参陣した。作戦を決める場で先制の夜襲を主張し、ためらう関白藤原忠通に決断を迫ったと伝わる。乱は後白河天皇方が勝利し、出頭した為義を、義朝は7月30日に弟らとともに処刑した。父を殺したとして、世の誹りを受けたという。『保元物語』は、義朝が自分の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西に退けられたとする。乱後、右馬権頭に任じられたが、不足を申し立てたため、左馬頭に任官した。
平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は藤原信頼と組み、信西らがいるとされた三条殿を襲撃した。信頼は、義朝が南関東で勢力を広げていたころの武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の下野守への任官も、信頼らの支援があってのことと見られている。信西を倒したあと信頼が政局の中心に立ち、義朝は播磨守に、頼朝は右兵衛佐に任じられた。しかし信頼は二条天皇の親政を求める一派と反目した。清盛が都へ戻ると、二条天皇が清盛の六波羅の邸へ脱出し、後白河院も仁和寺に逃れて、義朝は孤立した。12月27日に京中で戦いが始まり、兵の数で劣る義朝軍は壊滅した。義朝は子の義平、朝長、頼朝らを連れて東海道を下ったが、途中で朝長らが深手を負って亡くなり、頼朝ははぐれて捕らえられた。尾張国野間にたどり着いた義朝は、長田忠致父子を頼ったが、恩賞を目当てにした二人に裏切られ、入浴中に襲われて殺された。38歳であった。
義朝は最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだと伝わる。墓は終焉の地の野間大坊にあり、多くの木刀が供えられ、境内には義朝の首を洗ったとされる池もある。義朝が東国に築いた地盤と、頼朝に与えた高い身分は、のちの頼朝の挙兵と鎌倉幕府の成立の礎となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャービル・ブン・アフラフ (1160年)
- ベルナルドゥス・シルウェストリス (1160年没)
- ファーイズ (1160年)
- アブラハム・イブン・エズラ (1160年代没)
- ケットンのロバート (1160年)