伝記
アブラハム・ベン・メイール・イブン・エズラは、中世スペインのユダヤ教徒のラビであり、学者、詩人でもあった。生年は1090年または1092年、没年は1164年から1167年の間とされ、生地についてはトレドともいわれ、トゥデラで生まれた後にコルドバへ移ったともされる。本人が生地として挙げる町の名も一定せず、はっきりしない。イブン・エズラ家はスペインで名高い家系で、モーセ・イブン・エズラとは遠縁だったらしい。
生涯の前半は故郷スペインで過ごし、詩人・思想家としての名声を築いた。ヨセフ・イブン・ツァッディクやユダ・ハレヴィら当代一流の学者と親しく交わり、ハレヴィとは北アフリカのユダヤ人共同体を旅したともいわれる。聖書注釈には、ハレヴィとの哲学的な議論や、伝統的なラビ派と対立するカライ派との論争が反映されているという。家族については、出エジプト記の注解の記述から五人の子があったと推測され、名が知られるのは息子イサクだけである。イサクはバグダードで詩を作った後にイスラム教へ改宗し、父は深く悲しんだ。息子を連れ戻す望みからか、あるいは1140年代に始まったアルモハード朝の迫害のためか、イブン・エズラは東方へ旅し、エジプトやイスラエルの地、イラクを訪れたとされる。この旅の途中、カイロのベン・エズラ・シナゴーグの敷地を買い取ったとも伝えられる。このシナゴーグは、のちに世界で最も重要かつ研究されているゲニザ(文書保管庫)で知られる。
1140年ごろからは、生涯にわたる放浪の生活が始まった。スペインを離れて北アフリカ、エジプトを経て、ローマ、ルッカ、マントヴァ、ヴェローナと北イタリアを巡り、南フランスのナルボンヌやベジエ、北フランスのドルー、さらに1158年にはロンドンやオックスフォードのあるイングランドにも滞在した。最後は南フランスに戻っている。ベジエでは神の名に関する書を著し、庇護者だったアブラハム・ベン・ハイイームとイサク・ベン・ユダに献じた。同地の出身者イェダヤ・ベデルシは、それから150年以上たっても彼の滞在を熱意をこめて語っている。ユダ・イブン・ティボンも、南フランスのユダヤ人にとって彼の滞在が大きな意味を持ったと証言している。彼は自らをスペイン人と呼び続け、失った故郷への思いを、最もよく知られた詩の一つ「ネドド・ヘシール・オニ」では異邦人として書物を著し知識の秘密を明かす自分を描き、アルモハード朝の迫害で滅んだ共同体を列挙する哀歌にも込めた。放浪の学者でありながら、これほど豊かで重要な著作活動を不利な条件のもとで続けた例は、ほかに知られていないという。
各地での滞在中に、彼は多数の著作をヘブライ語で書いた。それまでアラビア語でスペインのユダヤ人だけに伝えられていた学問を、アラビア語を解さないイタリアやフランスのユダヤ人に広めるためである。文法書の『モズナイム』(1140年)や『ツァホート』(1145年)、宗教哲学の『ヨーセード・モーラー』(1158年)のほか、算術、天文表、暦、アストロラーベに関する書、占星術書の翻訳もあり、扱う分野は文法、哲学、数学、天文学、医学に及んだ。
とりわけ聖書注釈は、ユダヤ教注解学の黄金時代の幕開けとなったと評価される。伝説的な解釈に流れず、深い洞察を示す点が特色である。詩人としてのヘブライ語詩は、思想に富み格調は正しいが詩情にやや欠けるとの見方もある。月のクレーターの一つには、彼にちなんでアベンエズラの名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- ムクタフィー (12世紀) (1160年没)
- テオドール・プロドロモス (1160年没)
- ベルナルドゥス・シルウェストリス (1160年没)
- Raymond du Puy de Provence (1160年没)
- 源義朝 (1160年没)
同じ地域に関係する人物
- エンリケ2世 (カスティーリャ王) (1379年没)
- バルドメロ・エスパルテロ (1879年没)
- アレックス・アングロ (2014年没)