伝記
アナスタシウス4世は、第168代のローマ教皇である。本名はコッラード・デ・スブッラとされ、ローマのスブッラ地区の出身で、父はベネディクトゥスという人物だったと伝えられる。生年ははっきりせず、1073年ごろとされるが、1080年より前という推測にとどまるともいわれる。若いころの経歴ははっきりせず、世俗の聖職者だったとする説のほか、アヴィニョンのサン・ルフ修道院の院長だったかどうかも定かでないとされる。
聖職者としての足跡がはっきりしてくるのは、教皇パスカリス2世の時代に枢機卿に叙任されて以降である。叙任の年は、1111年、1114年より遅くない時期、1121年までに、などと説が分かれている。その後、教皇ホノリウス2世のもと、1127年か1128年に郊外司教区であるサビーナの枢機卿司教に昇進した。ホノリウス2世は、一説には彼の叔父だったともいわれる。1130年に教皇選挙が二重に行われて分裂した際には、対立教皇アナクレトゥス2世に最後まで強く反対し、インノケンティウス2世を支持した。
インノケンティウス2世がローマ市民の敵意を避けてシエナ、さらにフランスへ逃れると、彼は教皇代理としてイタリアに残り、ローマでの教皇の利益を守る役目を担った。この務めはその後のケレスティヌス2世、ルキウス2世、エウゲニウス3世の各時代にも続いたとされる。1153年7月にエウゲニウス3世が没すると、枢機卿団の首席であり、おそらく最年長の枢機卿でもあった彼が後継の教皇に選ばれ、ラテラノ大聖堂で即位した。
在位はおよそ1年半と短かったが、その間のローマは、ブレシアのアルナルドに率いられた市民が教皇の世俗支配を拒んだコムーネ運動のさなかにあり、決して穏やかな時期ではなかった。彼は調停者としてふるまい、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との間で長く争われていたマクデブルク司教の任命問題を、皇帝の意向を容れて決着させた。また、ヨーク大司教に選ばれたウィリアム・フィッツハーバートに対し、有力なシトー会の反対が続くなかで大司教の印であるパリウムを送り、四代の教皇にわたった論争に終止符を打った。聖ヨハネ騎士団の特権も確認している。
彼は奢侈を好んだとも伝えられ、とくにラテラノ大聖堂とその宮殿の装飾や整備に力と費用を注いだほか、ローマのパンテオンの修復も命じた。顧問には、のちの教皇ハドリアヌス4世となるニコラス・ブレイクスピアがいたという。
1154年12月3日にローマで没し、八十一歳だったとされる。遺体は、ヘレナの石棺を転用した墓に納められたとされる。後継にはイングランド出身のブレイクスピアが選ばれた。彼が皇帝との関係を改善し、皇帝がローマ市議会と結ぶのを防いだことは、後継者がコムーネを抑え込む土台になったと評価される。
なお、聖マラキの預言と呼ばれる教皇予言の書では、この教皇は「スブッラの修道院長」と呼ばれている。これは出身地区の名と、教皇に選ばれる前に修道院長だったという伝承を指すものとされる。教皇としての名は、これまでにアナスタシウスを名乗った最後の例でもあり、その後この名を選んだ教皇はいない。
同じ年に亡くなった人物
- ザーフィル (1154年)
- アデル・ド・サヴォワ (1154年没)
- コンシュのギョーム (1154年)
- ギルベルト・デ・ラ・ポリー (1154年没)
- イジャスラフ2世 (1154年没)
同じ地域に関係する人物
- ルキウス・ポルキウス・カト (紀元前89年没)
- ジャコモ・マッテオッティ (1924年没)
- カルロ・ヴァンツィーナ (2018年没)
- ルイジ・マーニ (2013年没)
- アグスティン・ガルシア=ガスコ・ビセンテ (2011年没)