伝記
イジャスラフ2世は、1097年から1100年のあいだに生まれ、1154年11月13日にキエフで没したキエフ大公である。父はキエフ大公ムスチスラフ1世、母はスウェーデン王女クリスティーナ(クリスティーナ・インゲスドッテル)で、ウラジーミル・モノマフの孫にあたる。洗礼名はパンテレイモンといい、のちにヴォルィーニのイジャスラフ系諸公の祖となり、ガーリチのダニールは彼の曽孫にあたる。若いころはクルスク、ポロツク、ペレヤスラヴリ、トゥロフ、ヴォルィーニなどの公位を歴任したとされるが、その年代には異説がある。
1146年、イジャスラフはフセヴォロド2世の跡を継いだ弟のイーゴリ2世を攻めて破り、捕虜としてキエフ大公位に就いた。久々にモノマフ一門が大公位に就いたことになる。在位は1146年から1149年、1150年、1151年から1154年とされる。彼はチェルニゴフのダヴィド一門と同盟して地位を固めたが、そのためオレーク一門の年長者であるチェルニゴフ公スヴャトスラフと敵対した。オレーク一門は、イジャスラフと争っていた叔父のスズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーと結んだ。モノマフ一門のなかでの長上権を巡る争いが、その背景にあった。年長制に従えばモノマフ一門の最年長者はユーリーの兄ヴャチェスラフだったが、モノマフは長男ムスチスラフの子孫に大公位を継がせようとしていたため、ムスチスラフ一門を代表するイジャスラフと、叔父ユーリーらが争った。このときは、キエフ市民の支持を得たイジャスラフが勝った。
1147年、イジャスラフは生粋のルーシ人クリム(クリメント)をキエフと全ルーシの府主教に任じようとしたが、弟ロスチスラフを含む多くの者が反発した。そのころ、ダヴィド一門がオレーク一門とともに、囚われていた元大公イーゴリ2世を救い出し、イジャスラフを殺そうと企てたが、気づいたキエフ市民が、救出される前にイーゴリを殺した。1149年、ユーリーはモノマフの子としての資格を掲げてイジャスラフをキエフから追い、大公位に就いた。イジャスラフはほどなくキエフを取り戻したが、1150年にユーリーに再び追われ、翌1151年に取り返した。ユーリーの同盟者であるオレーク一門、ガーリチのヤロスラフ、ポロヴェツ人からは攻撃を受け続けた。1151年以降はヴャチェスラフを共同統治者として争いを収め、死ぬまでキエフにとどまることができた。
最初の妃はドイツ王コンラート3世の娘で、アグネス(改宗後はリュバヴァ)といわれ、1151年に死別するまでに、ムスチスラフ2世、ヤロスラフ2世、ヤロポルク、ヴァシリコ、エヴドキヤらの子をもうけた。ヤロポルクとヴァシリコはシュムスク公となった。エヴドキヤはポーランド大公ミェシュコ3世と結婚し、名の伝わらない娘の一人は1143年にドルツク公ログヴォロドの妻となった。1154年にジョージア王デメトレ1世の娘を迎えたが、再婚の数か月後に没した。この妃は夫の死後、ジョージアへ帰った。弟ロスチスラフは兄が築いた体制を引き継ぎ、ヴャチェスラフとキエフを共治し、ユーリーはその後もキエフの大公位を奪おうとした。
同じ年に亡くなった人物
- ザーフィル (1154年)
- アデル・ド・サヴォワ (1154年没)
- イサキオス・コムネノス (アレクシオス1世の子) (1154年)
- オータンのホノリウス (1154年)
- スティーブン (イングランド王) (1154年没)
同じ地域に関係する人物
- ブレント・ルノー (2022年没)
- アレクサンダーボゴマゾフ (1930年没)
- ダヴィト・チェルカスキー (2018年没)
- ヴャチェスラフ1世 (1154年没)
- Borys Oliynyk (2017年没)