HISTORICAL PERSON · 1153年没

クレルヴォーのベルナルドゥス

12世紀フランスの神学者・説教家で教会博士の一人。1115年にクレルヴォー修道院長となり、教会分裂でインノケンティウス2世を擁護して対立教皇を破門に追い込み、第2回十字軍の勧誘にも大きく貢献した。

生涯
1153年没
死亡地
フランス共和国(オーブ県 / クレルヴォー修道院)
出生地
フランス共和国(Fontaine-les-Dijon)
出典
世界地図
フランス共和国(オーブ県)

伝記

クレルヴォーのベルナルドゥスは、12世紀のフランス出身の神学者であり、すぐれた説教家である。1090年に生まれ、1153年8月20日に没した。聖ベルナルドとも呼ばれ、聖公会とカトリック教会の聖人で、35人の教会博士の一人でもある。1830年に教皇ピウス8世から教会博士の称号を贈られ、卓越した聖書注釈から「蜜の流れるような博士」と称される。第2回十字軍の勧誘でも知られる。

ディジョンに近いフォンテーヌで、騎士テセランの子として生まれた。信仰厚い母アレトは、彼が幼いうちに世を去った。家族は軍人としての出世を望んだが、本人は母の影響もあって修道院に入りたいと願っていた。そこで家族は、聖職者としての高等教育を受けさせようと、彼をシャティヨン=シュル=セーヌへ送った。それでも修道生活をあきらめず、1112年にシトー修道院に入った。この修道院は、モレスムスのロベルトゥスが1098年に開いたものである。入るにあたって、彼は兄弟や親族、友人らも連れて門をたたいた。当時のシトー修道院は初期の熱意を失いつつあったが、名門一族の若者が一挙に30人も加わって活気を取り戻し、西欧の修道制に大きな影響を与えるようになった。

1115年、トロワ伯ユーグから与えられたオーブの谷の一角にクレルヴォー修道院が創設され、若いベルナルドゥスが院長に任命された。これが「クレルヴォーの」という呼び名の由来である。形式上はシトー修道院の子院だが、実質は最重要の修道院となった。彼の名声と人格による。聖性と厳しい自己節制、説教の才で名声は高まり、奇跡の噂が広まると、多くの巡礼者や病者が押しかけた。本人の望みに反し、世俗の問題に関わらざるをえなくなった。1129年にはトロワの司教会議でテンプル騎士団の認可のために働きかけた。

評価を決定的にしたのは教会分裂の収拾である。1130年に教皇ホノリウス2世が没すると選挙が紛糾し、インノケンティウス2世に対して対立教皇アナクレトゥス2世が立った。ルイ6世が招集したエタンの司教会議で、ベルナルドゥスはインノケンティウス2世を強く擁護し、各地を放浪する彼こそ「世界に受け入れられた教皇」だと主張した。1133年には皇帝ロタール3世のローマ進軍に合わせ、ジェノヴァとピサの同盟を成立させ、1135年春には、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世とロタール3世の和解を実現させた。同年6月にはピサ教会会議を主導し、アナクレトゥス2世を破門に追い込んだ。1138年にアナクレトゥス2世が没し、支持者が擁立した次の対立教皇ウィクトル4世も、支持を失って自ら退位し、分裂は収まった。1140年のサンスの宗教会議では、学者ピエール・アベラールとの論争で圧倒し、アベラールは討論の途中で退場して有罪宣告を受けた。

シトー会も発展し、1130年から1145年に少なくとも93の修道院が加入または新設された。1145年、シトー会出身のベルナルド・パガネッリがエウゲニウス3世として教皇に選ばれ、影響力は頂点に達した。同年、教皇の願いに応じて十字軍の勧誘演説を行い、ヴェズレーでの勧誘でルイ7世や王妃アリエノール・ダキテーヌらが参加し、コンラート3世も加わった。しかし十字軍が惨敗したことは彼に大きな衝撃を与え、従軍者の罪によるのだと結論した。1148年のランス教会会議ではジルベール・ド・ポルレの学説を攻撃したが、影響力は弱まっていた。最後の著作『デ・コンシデラチオーネ』は、頭脳の明晰さが最期まで衰えなかったことを示す。1153年8月20日、自ら開いたクレルヴォーで没した。

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