HISTORICAL PERSON · 1153年没

アンナ・コムネナ

東ローマ帝国コムネノス王朝の皇族で、アレクシオス1世の長女。夫を帝位に就けようと弟ヨハネス2世の暗殺を企てて失敗し、修道院に隠棲した。夫の未完の歴史を引き継ぎ、アレクシアスを完成させた歴史家。

生涯
1153年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アンナ・コムネナは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の皇族であり、歴史家である。1083年12月2日に生まれ、没年は1154年から1155年とする説と1153年ごろとする説がある。初代皇帝アレクシオス1世コムネノスと、有力貴族ドゥーカス家出身の皇后エイレーネーの長女で、父の治世を記した『アレクシアス』を著し、重要な歴史書を書いたヨーロッパ初の女性とされる。

アンナはコンスタンティノープル大宮殿にある皇后専用の「緋色の産室」で生まれた。『アレクシアス』には、土曜日の夜明けに女の子が生まれ、誰もが父にそっくりだと言った、その赤ん坊が自分だという趣旨の一節がある。生まれて間もなく、前皇帝ミカエル7世の息子で、アレクシオスの共同皇帝とされていたコンスタンティノス・ドゥーカスと婚約した。当初は彼が後継候補で、そのまま即位すればアンナは皇后になれるはずだった。しかし1087年に弟ヨハネスが生まれ、1095年にはコンスタンティノスが急死した。アンナは高度な教育を受け、宗教書のほか、ホメロス、ヘロドトス、アリストパネスらのギリシア古典を愛読し、神話、地理学、修辞学、哲学に深い知識をもった。序文では、完璧なギリシア語を書けるよう精進し、アリストテレスの諸学やプラトンの対話篇を読み、天文学、幾何学、算術、音楽の四学科で知性を磨いたと記している。

1097年には、名門軍事貴族ブリュエンニオス家のニケフォロスと結婚した。この家は1077年から78年にかけて反乱を起こし、将軍時代のアレクシオスに討伐されたこともあり、皇帝が自らと敵対した家を一門に取り込むための政略結婚であった。1118年に父が死去する際、アンナは母とともに夫を後継者に据えようとしたが、父が認めず、夫も動かなかったため失敗し、共同皇帝だった弟がヨハネス2世として即位した。翌1119年の春、アンナは首都郊外のフィロパティオン宮殿にいた弟を暗殺する計画を立てたが、またしても夫が動かず、これも失敗した。

計画に失敗したアンナは逮捕されて財産を没収されたが、のちに弟と和解し、財産を返されたうえで、母が建てたケカリトメネ修道院に隠棲した。夫や息子たちはヨハネス2世への出仕を許された。姉に寛大だった弟は「善良なるヨハネス」と呼ばれるようになった。修道院では、哲学、神学、医学、文学、占星術などを学んだが、歴史学を学んだ形跡はなく、自著でトゥキュディデスにも触れていない。

転機は1136年である。夫ニケフォロスはヨハネス2世のシリア遠征に従軍中に体調を崩し、都に戻ってそのまま没した。彼は義母エイレーネーに命じられ、アレクシオス1世の治世の歴史を書いていたが、完成させられなかった。アンナは夫の『歴史』を引き継ぎ、体験者への聞き取りや宮廷文書の閲覧を重ね、『アレクシアス』として完成させた。この作品は第1回十字軍をめぐる西方と東方の見方を比べる主要な資料でもある。その後はケカリトメネ修道院で没し、孤独のうちに人知れず世を去ったとみられ、同修道院に葬られたと思われる。ニケフォロスとの間に4人の子が確認されており、子どもたちは父方のブリュエンニオスを名乗らず、母方のコムネノスやドゥーカスを名乗った。アンナ自身の肖像は伝わっておらず、没後に友人たちが捧げた追悼文は、丸顔で輝く瞳をもち、老いても肌は白く頬に赤みがさしていたと記すが、故人をたたえる紋切り型の表現のため、実際の面影をどこまで伝えるかは定かではない。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物