HISTORICAL PERSON · 969年没

ニケフォロス2世フォカス

東ローマ皇帝(在位963〜969年)。将軍としてクレタ島を奪回し、即位後もアレッポやアンティオキアを占領した。重税や貨幣の悪鋳で民衆に嫌われ、皇后テオファノと甥のヨハネスに暗殺された。

生涯
969年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(カッパドキア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ニケフォロス2世フォカスは、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位963年〜969年)である。912年または913年の生まれとされる。祖父ニケフォロス、父バルダス、弟レオーンなど、東ローマの東西の野戦軍の指揮官を輩出した軍事貴族フォカス家の出身で、母方はカッパドキアに定着した有力なマレイノス家に連なった。若い頃にステファノと結婚したが、彼女が亡くなった後は貞潔の誓いを立てたとされる。

若くして軍に入り、945年にコンスタンティノス7世のもとでアナトリコン軍管区の長官に任じられた。954年か955年には、ハムダーン朝やアッバース朝に連敗した父に代わって東方軍の総司令官となり、957年6月にはアダタを陥れて破壊した。959年にロマノス2世が即位すると、弟レオーンとともに東西の野戦軍を任され、960年、宦官ヨセフ・ブリンガスの推薦で、イスラーム勢力のクレタ首長国への遠征軍を率いた。約9か月にわたってカンダクスの要塞都市を包囲し、961年3月6日に入城して島全体を奪回し、東地中海の制海権を回復した。凱旋式は認められず、競馬場での歓呼にとどめられた。その後、東方に戻ってキリキアに進み、962年にアナザルボスを占領し、タルソスの総督を破り、同年12月24日にはアレッポに入った。ハムダーン朝にとって痛手であったこの遠征で、「サラセン人の青白い死」という異名を得たと考えられている。

963年3月にロマノス2世が25歳で急死した。皇后テオファノが幼い子バシレイオスとコンスタンティノスの摂政となったが、権力を保ちたいブリンガスと、軍の実質的な指揮者であるニケフォロスとの間に争いが起こった。7月2日に軍がニケフォロスを皇帝に推戴し、首都の市民も彼を支持し、市街戦を制して歓呼のなかで入城した。彼はテオファノと結婚し、二人の幼帝の義父として即位し、父バルダスを副帝に任じた。

即位後も重装騎兵軍団を整えて積極的に外征を続け、アレッポとタルソスを占領し、300年以上も帝国を離れていたシリアのアンティオキアを回復した。市民は歓喜して、凱旋する皇帝を「明けの明星」にたとえる歌で迎えたという。敬虔な信仰を持ち、アトス山の修道院共同体を後援したが、教会が世俗に権力を伸ばす姿を嫌って聖職者に清貧を説いたため、総主教たちからも疎まれた。連年の戦費のために貴族や軍人にまで重税を課し、貨幣の悪鋳も行い、965年のシチリア遠征の失敗で民衆の不満は増大した。フォカス家の親族や関係者の優遇も貴族層や軍人の反感を招いた。彼は強力な親衛隊を組織して教会人の抗議にも動じず、危険視したのは軍人層だけで、不穏な動きを見せた甥ヨハネスには皇宮への出入りを禁じた。歴史家ギボンは、その軍勢をローマ軍と呼ぶのにためらわないと評している。

皇后テオファノも、武骨な老軍人である夫と反りが合わず、冷遇されていた甥のヨハネス・ツィミスケスと恋仲になり、二人は暗殺を画策した。969年12月10日から11日にかけての夜、ヨハネスらは彼女の手引きで宮殿に侵入し、イコンの前の床に寝ていたニケフォロスを襲って殺害した。その間、彼はひたすら聖母マリアに祈っていたという。ヨハネスはただちに玉座に着き、皇帝ヨハネス1世となった。

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