伝記
イブン・ターシュフィーンは、ムラービト朝の第7代(第4代とも数えられる)の君主である。名をイブラーヒームといい、ターシュフィーン・イブン・アリーの子で、1131年ごろにマラケシュで生まれたとされる。若いころはコルドバで学んだという。ムラービト朝は、ムワッヒド朝の進出に押されていた。父ターシュフィーンが援軍を求めると、イブラーヒームはアンダルスの軍勢とともにトレムセンへ来て、1144年の終わりごろに着いた。父はこのとき彼を後継者に指名したという。戦況が悪くなると、父は1145年1月にイブラーヒームをマラケシュへ送った。それから1か月ほどで、父はオランで死んだ。
父の死の知らせは、1145年4月にマラケシュに届いたともいわれる。イブラーヒームはすぐに君主として迎えられたが、年齢は9歳か10歳ともいわれ、14歳とする記述もあって、国の政務を執れる状態ではなく、実際の権力は有力な親族の手にあった。このころ国は苦しい状況にあった。ムワッヒド朝の指導者アブドゥルムウミンは、オラン近くでムラービト朝の軍を破り、フェスとモロッコの大部分、メクネスやサレも押さえた。ピレネーの向こうではアラゴンとカスティーリャの王たちが攻勢に出て、1146年にはポルトガルのアフォンソ・エンリケスがサンタレンを奪った。バルセロナ伯ラモン・ベレンゲーテ4世もカタルーニャの取り戻しを始めた。
叔父のイスハーク・イブン・アリーは、この即位を認めなかった。彼はかつて、母の支えを受けて、兄アリー・イブン・ユースフに自分を後継者にするよう求めたが、果たせなかった人物である。このとき15歳か16歳だった。イブラーヒームやその後見人の対応が弱いとして、1146年にクーデターが起こった。ムワッヒド朝の軍がフェスに迫るなか、マラケシュで両陣営が戦い、イスハークが甥に代わって君主の座に就いた。イブラーヒームの在位は、2か月ほどだったともいわれる。1147年、ムワッヒド朝軍がマラケシュを攻め落としたとき、イブラーヒームは殺されたと考えられる。オランでムワッヒド朝の軍と戦って死んだとする記述もある。
同じ年に亡くなった人物
- イスハーク・イブン・アリー (1147年没)
- イーゴリ2世 (1147年没)
- ロバート (初代グロスター伯) (1147年没)
- カブル・カン (1147年)
- フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公) (1147年没)
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