HISTORICAL PERSON · 1147年没

イーゴリ2世

キエフ大公の位を兄フセヴォロドの遺言で継いだが、キエフの人々がイジャスラフ側に寝返ったため捕らえられ、修道院に入れられた。1147年に民会の決定で殺され、のちロシア正教会の聖人となった。

生涯
1147年没
死亡地
ウクライナ(キーウ)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

イーゴリ2世は、オレグの子で、1146年にごく短い間だけキエフ大公となり、のちにロシア正教会の聖人とされた人物である。キエフ大公スヴャトスラフ2世の孫で、チェルニゴフ公オレグの息子にあたり、キエフ大公フセヴォロドの弟、スヴャトスラフの兄である。聖名はゲオルギーという。1127年から1142年までプチヴリ公をつとめ、1142年から1146年まではベレスチエ・ドロギチン公であった。生まれた年はわかっていない。

1145年、兄のフセヴォロドはイーゴリを後継者に指名し、チェルニゴフ、キエフ、モノマフ家の貴族や諸公を説き伏せ、おどして、彼への忠誠を誓わせた。これにより、1146年の継承はひとまず平和のうちに行われた。1146年8月1日にフセヴォロドが死ぬと、イーゴリは遺言に従ってキエフ大公の位を継いだ。

しかし、キエフの人々は彼を受け入れなかった。イーゴリは人々を呼び集めて忠誠を誓わせようとしたが、人々は十字架に接吻する儀式こそ行ったものの、公として認めることは拒み、民会の開かれる場所に集まって、イーゴリにも条件を守る誓いを求めた。人々はフセヴォロドの代官たちのふるまいを訴え、イーゴリは代官を人々が選ぶことを認めたが、そのあと人々は代官らの屋敷を略奪した。イーゴリは弟スヴャトスラフに騒ぎを鎮めさせ、ペレヤスラヴリ公イジャスラフに助けを求めたが、イジャスラフは断り、キエフの人々は逆に彼を公として迎えようとした。チェルニゴフのダヴィドヴィチ家のウラジーミルとその弟も、イーゴリの弱みにつけこんで新しい領地を求め、イーゴリはこれに応じた。キエフに入ったイーゴリは約束を破り、フセヴォロドのもとの役人2人を再び任じて市民の支持を得ようとしたが、2人はなぜかイーゴリを支持しなくなり、イジャスラフを支持する一派の指導者となった。

やがてイーゴリとイジャスラフの間で合戦が始まると、キエフの人々の軍はイジャスラフ側に寝返り、イーゴリは捕らえられて幽閉された。その後、病気になったため解放されて修道院に入れられ、スヒマ(大修道服)を受けた修道士となった。病気が治ったあとも、修道院で過ごした。

1147年、キエフ大公となっていたイジャスラフを殺そうとするオレグの一門の謀略が明るみに出ると、キエフの民会は、報復としてイーゴリを処刑すると決めた。人々は祈りの儀式の最中の教会に押し入り、生神女のイコンの前でイーゴリを捕らえた。彼は9月19日に殺され、死体は市場にさらされた。遺体は初めキエフ郊外の聖シメオン修道院に葬られたが、1150年、弟のスヴャトスラフによって、不朽体としてチェルニゴフの救世主顕栄大聖堂に安置された。聖遺体を安置した日の6月5日と、殺された日の9月19日が、イーゴリの記憶日となっている。

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