HISTORICAL PERSON · 1145年没

ルキウス2世 (ローマ教皇)

第166代ローマ教皇。ボローニャ出身で、ルッカで教会法学者として活躍した。ローマのコミューンと対立し、自ら軍を率いてカピトリウムを襲撃したが、敵の投石で重傷を負って死去し、「軍人教皇」といわれた。

生涯
1145年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ボローニャ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス2世は、第166代のローマ教皇である。本名はゲラルド・カッチャネミチ・ダル・オルソといい、ボローニャでオルソ・カッチャネミチの子として生まれた。在位は1144年3月から1145年2月15日に没するまでで、就任日は3月9日とも12日ともいわれる。若い頃はルッカで長く教会法学者や聖堂参事会員として活躍した。1124年に教皇ホノリウス2世から司祭枢機卿に叙任されると、聖十字架聖堂を改修し、参事会員を置いて収入も改善したとされる。教皇となった後には、金板と宝石で飾った福音書の写本や祭壇布などを同聖堂に寄進している。1125年から1126年にかけては教皇使節としてドイツに派遣された。この間、ロタール3世の擁立を助け、クサンテンのノルベルトをマクデブルク大司教に任じたという。1128年にはベネヴェントの統治のために送られた。

1130年にインノケンティウス2世のもとで再びドイツ使節となり、ロタール3世に二度のイタリア遠征を促して、対立教皇アナクレトゥス2世から教皇を守る上で大きな役割を果たした。1135年から36年にもドイツで使節を務め、モンテ・カッシーノの修道士たちを教皇権に従わせる交渉にも加わっている。また、アナクレトゥス2世派の分裂を終わらせるため、サレルノでシチリア王ルッジェーロ2世との交渉にもあたった。インノケンティウス2世の主要な支持者として侍従・司書などの要職を任され、1144年3月にケレスティヌス2世が没すると、その跡を継いだ。

在位中は、中世キリスト教世界の通常の教会業務にあたった。イングランドでは司教や修道院に数々の特権を与え、使節を送ってセント・デイヴィッズ司教の大司教座昇格の請願を調べさせ、ヨーク大司教にパリウムを届けさせた。王位をめぐる争いでは女帝マティルダの側に立ったとされる。ポルトガル王アフォンソ1世からは、独立を保つため教皇を封建的な宗主と仰ぎ、毎年金4オンスを納めたいとの申し出を受けた。教皇は臣従の誓いを認めたが、王号は認めずポルトガル公として扱った。ルッカの有力者たちからは、ピサとの戦争から城を守るため保護を求められ、金10ポンドと引き換えにこれを受け入れ、城を封土として返したという。教皇領に属していたコルネートの町も、この在位中に正式な証書で教皇の手に戻された。

一方、かつてルッジェーロ2世の友人であり、その子の代父でもあった教皇は、王との関係を悪化させた。1144年6月にチェプラーノで会談し、教皇はカプア公国の返還を求めたが、王は教皇領の南部の土地を要求して対立した。王が息子のアプーリア公ルッジェーロに命じて派遣したシチリア軍は、カンパーニアを荒らしてフェレンティーノに達し、同年9月に教皇は7年間の休戦を結んだ。この屈服を好機として、ローマではコミューンの勢力が拡大し、教皇と対立した。代弁者はアナクレトゥス2世の兄弟ジョルダーノ・ピエルレオーニである。教皇はドイツ王コンラート3世やルッジェーロ2世に支援を求めたが、いずれも失敗した。

そこで自ら軍隊を率いて、コミューンの拠点カピトリウムを襲撃したが、敵の投石で重傷を負い、間もなく没した。自ら軍を指揮したことから、「軍人教皇」と呼ばれている。

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