伝記
ゲルトルート・フォン・ザクセンは、1115年4月18日に生まれ、1143年4月18日に没した中世ドイツの貴婦人である。バイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ10世(傲岸公)の妃で、ハインリヒ獅子公の母にあたる。父は1106年からザクセン公で、のちに神聖ローマ皇帝となるロタール3世、母はリヒェンツァ・フォン・ノルトハイムであり、両親が結婚して15年後に生まれた唯一の生き残った子だった。母方の曽祖父オットー・フォン・ノルトハイムは、ザクセン人が国王に反抗した際の指導者の一人だった。1125年に皇帝ハインリヒ5世が没すると、ロタールはマインツ大司教アーデルベルトの支持を受けて国王に選ばれた。この選挙の決め手は、バイエルン公ハインリヒ黒公の票だった。ヴェルフ家との結びつきを固めるため、ロタールは娘を黒公の子で、1126年にバイエルン公となったハインリヒ傲岸公と結婚させた。1127年5月29日、アウクスブルク近くのレヒ川のほとり(グンツェンレ)で盛大な式が行われ、公はその後、ロタールがホーエンシュタウフェン家と戦う際の忠実な支えとなった。
1129年に一人息子のハインリヒ(のちの獅子公)が生まれた。ロタールは1133年に皇帝となり、1136年に傲岸公へトスカーナ辺境伯領を授けたため、ゲルトルートはトスカーナ辺境伯妃となった。1137年に父が没すると、夫はザクセン公位を継ぎ、ズュプリンゲンブルク、ブラウンシュヴァイク、ノルトハイムの周辺にあるザクセンの私有地も受け継いだ。年代記作者フライジングのオットーは、傲岸公が「デンマークからシチリアまで」に及ぶ王国の主を名乗ったと記す。しかし1138年の選挙では、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世に敗れて王位を継げなかった。傲岸公が臣従を拒むと追放され、バイエルンとザクセンの公位を奪われた。コンラートはバイエルンをオーストリア辺境伯レオポルトに、ザクセンをアルプレヒト熊公に与えた。ザクセンで権利を守ろうとするうち、傲岸公は1139年にクヴェトリンブルクで急死し、ゲルトルートは10歳の息子とともに残された。
1139年から1142年まで、ゲルトルートはザクセン公領の摂政をつとめた。母で皇后のリヒェンツァの助けを受け、コンラート3世と合意を結んで、息子の相続を守った。1142年にアルプレヒトが権利を放棄し、獅子公はザクセン公領を取り戻した。その代わり獅子公はバイエルンの継承権を捨て、コンラートはバイエルンをバーベンベルク家のオーストリア辺境伯ハインリヒ2世に与えた。この辺境伯が、ゲルトルートと結婚することになった。二人は1142年5月1日にブラウンシュヴァイクで結婚し、娘リヒェンツァをもうけた。1143年4月18日、ゲルトルートは28歳の誕生日に、オーストリアのクロスターノイブルク修道院で出産のさなかに没した。葬られたのは、ウィーンの森にあるハイリゲンクロイツ修道院とも、ウィーンのショッテン修道院ともいわれる。ハインリヒ2世は、のちに東ローマ皇帝マヌエル1世の姪テオドラを後妻に迎えた。1152年に叔父コンラートを継いだフリードリヒ赤髭王は、1156年にゲルトルートの息子へバイエルン公領を返した。
同じ年に亡くなった人物
- 耶律大石 (1143年没)
- ヨハネス2世コムネノス (1143年没)
- エルメジンデ・フォン・ルクセンブルク (1143年没)
- アリー・イブン・ユースフ (1143年)
- インノケンティウス2世 (ローマ教皇) (1143年没)
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