HISTORICAL PERSON · 1143年没

耶律大石

西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝。遼が金に攻められると北遼の建国に関わり、のち契丹人を率いて西へ逃れて1132年に即位した。カラハン朝を服属させ広大な地域を領有したが、故地回復の東征は挫折した。

生涯
1143年没
死亡地
アフガニスタン・イスラム共和国(クズロルダ州 / 中央アジア)
出生地
—
出典
世界地図
アフガニスタン・イスラム共和国(クズロルダ州)

伝記

耶律大石は、遼の皇族の出で、のちに西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)となった人物である。1143年に没し、享年は58とされる。遼の太祖耶律阿保機の血を引く。『遼史』は、1115年に科挙で首席となり翰林院へ進んだと記すが、遼では契丹人が科挙を受けることを禁じていたため、これは誤りとされる。おそらく推挙で北面官の大林牙院に進み、上級の林牙に就いたと思われる。のち泰州と祥州の刺史、遼興軍節度使を歴任した。ある説では、隠れマニ教徒だったという。

1122年、女真人の金に攻められた天祚帝は中京から西の雲中の陰山へ逃れた。大石は宰相の李処温とともに南京(燕京)で、天祚帝の従父にあたる耶律涅里を半ば無理に擁立し、天錫帝として北遼を建てた。大石は軍事の統帥を任された。大石は宋と和平を望んだが、宋は童貫の監督のもと15万の大軍で燕雲十六州を攻めた。大石はこれを白溝河で大いに破った。和平の申し出は童貫に拒まれ、李処温は宋との内通が露見して処刑された。天錫帝が没すると、秦王耶律定が立てられ、徳妃の蕭普賢女が摂政となった。20万に増えた宋軍が劉延慶の指揮で燕京へ奇襲をかけ、大石は市街戦にまで追い込まれたが、これも撃破した。次に童貫が金に燕京攻撃を頼み、阿骨打が三方から攻めた。大石は居庸関で迎え撃ったが敗れ、金軍に捕らえられたものの、厚遇された。1123年、大石は秦王や徳妃らを奉じて天祚帝のもとへ逃れた。天祚帝に天錫帝の擁立を責められると、大石は、天祚帝が逃げたから擁立したのだと言い返したという。

天祚帝のもとでの身の安全を疑った大石は、1124年に金軍が迫ると、契丹の重装騎兵200人ほどを連れて可敦城へ逃れ、モンゴル高原の18部の王を集めて自立した。1130年に金が耶律余睹を送って攻めると、大石は交戦したが、激しい戦いにならないうちに西へ退き、アルタイ山脈の西を通ってビシュバリクへ向かった。ウイグルのビルゲ可汗は国境まで迎えに出て、軍馬やラクダを贈り、臣従を認めたと伝えられる。1132年に大石はエミルで即位し、天祐皇帝と名乗って、元号を延慶とした。これが西遼であり、イスラーム側ではカラ・キタイ、君主はグル・ハンと呼んだ。1134年にウイグルでカルルク部族が反乱を起こすとこれを鎮め、ベラサグンへ都を移してクズオルドと改めた。

1137年にカラハン朝の軍を破り、東カラハン朝のイブラーヒーム2世は政権を譲る意思を伝えたという。大石はカンクリやキルギスの部族を従え、フェルガナにも支配を広げた。西カラハン朝のマフムード2世も臣従し、1141年にはホラズム・シャー朝のアトスズに毎年金貨3千ディーナールの歳貢を誓わせた。同じ1141年、セルジューク朝のスルタン・サンジャルの大軍をサマルカンド近郊のカトワーン平原で破り、中央アジアに覇を唱えた。この敗北で、サンジャルがイラン全土を統一しようとする計画は挫折した。西遼の領土はモンゴル高原の西部から新疆、カザフスタン東部、マー・ワラー・アンナフルまで広がった。故地の奪還を願い、金へ7万の親征軍を出したが、行軍の途中で没し、東征軍は引き返した。子の耶律夷列が跡を継いだが幼かったため、后妃の蕭塔不煙が摂政となった。

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