伝記
アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンは、1072年か1073年ごろに生まれ、1143年9月24日に没したザーリアー朝の皇族である。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と、最初の妃でサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタとのあいだの次女で、第3子にあたる。祖母の名にちなんで名づけられた。年上の兄と姉は幼いころに亡くなり、弟に、父の跡を継いだハインリヒ5世がいる。ハインリヒ5世は後に叙任権闘争を終わらせたヴォルムス協約を結んだ。
1079年3月24日にレーゲンスブルクで、ビューレンのフリードリヒの子フリードリヒと婚約した。2人は1089年に結婚し、このときアグネスは16歳か17歳、フリードリヒは38歳か39歳だった。この結婚によって、皇帝の父はフリードリヒにシュヴァーベン大公の位を与えた。フリードリヒは結婚の何年も前、1070年ごろに、ホーエンシュタウフェンの丘に城を築いており、ビューレン家はのちにこの城の名を姓に用いた。ホーエンシュタウフェン家は、ザーリアー家の血筋を引くことを根拠に、ドイツ王位を求めるようになる。1102年ごろ、夫妻はベネディクト会のロルヒ修道院を創建した。夫妻には多くの子が生まれ、その中には、のちにローマ王となるコンラート3世や、皇帝フリードリヒ1世の父となるフリードリヒ2世がいる。
1105年にフリードリヒが死ぬと、アグネスは未亡人となり、1106年にオーストリア辺境伯レオポルト3世と再婚した。教皇の側について皇帝ハインリヒ4世に逆らったレオポルトの忠誠に報いるため、ハインリヒ5世が妹の手を与えたのだという。この結婚でレオポルトの地位は高まり、多くの領地も嫁資として得た。レオポルトは新しい居城ニーヴェンブルクの建設を始めた。伝説によると、辺境伯夫妻が新しい城のバルコニーに立っていたとき、強い風でアグネスのヴェールが飛ばされ、探しても見つからなかった。何年かのちに、レオポルトが狩りをしていると、茂みの葉の間で光るものが目にとまった。そこには無傷のヴェールがからまっており、その光の中に聖母マリアが現れて、その場所に教会と修道院を建てるようレオポルトに告げた。こうして創建されたのがクロスターノイブルク修道院だという。2人のあいだには12人の子が生まれたともいわれ、11人とする記録もある。その中には、のちにフライジング司教となり、甥の皇帝フリードリヒ1世の伝記を著したオットーや、ポーランド大公ヴワディスワフ2世の妃となり「当代最高の美人の1人」と言われた娘のアグネスがいる。
1125年に兄の皇帝ハインリヒ5世が子のないまま亡くなると、アグネスとその子らは、ヴァイプリンゲンを含むザーリアー家の所領を受け継いだ。1136年に辺境伯レオポルトが亡くなってからは、アグネスは再婚しなかった。レオポルトは1485年に列聖され、オーストリアの守護聖人となった。1137年1月8日付で、教皇インノケンティウス2世は未亡人のアグネスに慰めの手紙を送り、子らが母を敬い、母が子らを愛するようにと平和と調和を説いた。皇帝ロタール3世に「彼女の求めに応じて」話をすると伝えてもいる。1137年の春ごろには、アグネスの主導でトゥルンに諸侯の大きな集まりが開かれ、息子のレオポルトとアーダルベルトの和解がはかられた。
アグネスは1143年9月24日、70歳か71歳でクロスターノイブルクで世を去り、夫が創建した修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- エルメジンデ・フォン・ルクセンブルク (1143年没)
- ユーグ2世 (ブルゴーニュ公) (1143年没)
- マームズベリのウィリアム (1143年没)
- 耶律大石 (1143年没)
- ヨハネス2世コムネノス (1143年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルマン・エアハルト (1971年没)
- ゴットフリート・フォン・アイネム (1996年没)
- ルネ・ド・ブルボン=パルム (1962年没)
- ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1827-1894) (1894年没)
- エドゥアルト・ハンスリック (1904年没)