HISTORICAL PERSON · 紀元前202年没

項羽

中国史上最も勇猛といわれる将で、楚の将軍項燕の孫。叔父の項梁に従って挙兵し、鉅鹿の戦いで秦軍を大破した。十八人の諸侯王を分封して西楚の覇王を号したが、楚漢戦争で劉邦に敗れ、垓下で自刃した。

生涯
紀元前202年没
死亡地
中華人民共和国(安徽省 / 和県)
出生地
中華人民共和国(宿遷市)
出典
世界地図
中華人民共和国(安徽省)

伝記

項羽は、秦末から楚漢戦争期にかけての西楚の君主である。姓は姫、氏は項、諱は籍、字が羽で、紀元前232年に生まれ、紀元前202年に没した。楚の将軍項燕の孫で、項梁・項伯の甥にあたる。項氏は代々楚の将軍を務めた名門で、紀元前223年に秦が楚を滅ぼしたとき、祖父の項燕は敗死した。少年の項羽は書と剣術を学んだが成就せず、叔父の項梁に叱られると、文字は姓名が書ければ足り、剣は一人を相手にするだけだと答え、大勢を相手にする兵法を望んだ。だが兵法も大略を知っただけで、最後まで学び通そうとはしなかった。成人すると身長は八尺余り、鼎を持ち上げる怪力で、瞳が二つあったとも伝えられ、才気も抜きんでており、呉中の若者たちに畏れられた。

紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こると、項羽は項梁に従って会稽郡の役所へ赴き、命じられるや郡守の殷通を斬り、襲いかかる部下百人近くを一人で倒した。このとき二十四歳であった。項梁は会稽郡守となり、項羽は副将として諸県を制圧した。襄城では堅い守りを破ったのち城内の人々を皆殺しにしており、この残忍さは後に関中攻めから外される理由の一つになった。紀元前208年、項梁は范増の献策で旧楚王家の末裔の熊心を懐王に立てたが、同年九月に定陶で秦の章邯の夜襲を受けて戦死した。

懐王は宋義を上将軍、項羽を次将とした。宋義は趙の救援に向かいながら安陽に四十六日も留まり、子の出世を図る宴を開く一方で兵は飢え凍えていた。紀元前207年十一月、項羽は宋義を殺して仮の上将軍となり、のち懐王から正式に上将軍に任じられた。続く鉅鹿の戦いで、鉅鹿を囲む章邯の二十万を超える秦軍に大勝し、数に劣る楚の兵は一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。諸侯の軍は項羽の指揮下に入り、章邯はやがて降伏して雍王とされた。しかし降伏した秦兵二十万余りは、暴動の気配があるとして新安で夜襲を受け、章邯ら三人を除いて生き埋めにされた。

関中では先に咸陽へ入った劉邦が函谷関を閉ざしていたが、項羽は怒ってこれを攻め破り、劉邦を討とうとした。劉邦が項伯を通じて和睦を求めたのが鴻門の会であり、劉邦は命拾いした。項羽は秦王子嬰の一族を処刑して咸陽を焼き払い、都を関中に置くよう勧めた論客を、故郷に錦を飾りたいと退けた。さらにその論客が楚人を猿が冠をつけたようなものだと呟くと、釜茹でにした。紀元前206年、項羽は十八人の諸侯王を封じ、劉邦を漢王として巴・蜀・漢中に置き、自らは西楚の覇王を称して彭城に都した。同時に懐王を義帝と呼んで格上げしたが、やがて義帝を追い出し、後に英布らに命じて暗殺させた。

封建への不満から田栄や彭越らが各地で挙兵し、項羽は斉で城や家屋を焼き、降伏兵を生き埋めにして、かえって斉の人々の抵抗を招いた。劉邦は義帝の死を口実に諸侯へ項羽討伐を呼びかけ、楚漢戦争が始まった。紀元前205年の彭城の戦いで、項羽は三万の精兵で劉邦の連合軍を破り、二十万余を殺した。しかし滎陽では陳平の離間策にかかって范増を疑い、范増は辞職して帰る途中で病死した。広武で劉邦と対峙するなか、項羽は劉邦の父を人質にして降伏を迫ったが拒まれ、一騎打ちも断られ、隠し持った弩で劉邦を射て負傷させた。一方で、龍且は韓信に敗れて戦死し、彭越は糧道を断った。劉邦との戦いは項羽の軍を疲れさせ、最後は垓下の戦いに敗れて自刃した。「覇王」の語は通常、項羽を指す。

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