伝記
ミハイル2世は、ミハイル・フセヴォロドヴィチの名でも知られるルーシの公で、キエフ大公をつとめた人物である。生年は1179年とも1185年頃ともいわれる。父はチェルニゴフ公フセヴォロド、のちのキエフ大公フセヴォロド4世で、母はポーランド大公カジミェシュ2世の長女マリア(アナスタシア)であった。幼いころ、体が動かなくなる病をわずらい、祖父の大公スヴャトスラフ3世が教会に多くの寄進をしても治らなかったという。柱頭行者ニキータを訪ねて杖を受けた公が、癒えたとされる。この話は後代の史料にのみ見え、脚色を含む。1206年には父がペレヤスラヴリ公ヤロスラフを追放し、その座にミハイルがついた。しかしキエフの主リューリクに退去を求められて、父のもとへ戻った。1210年か1211年には、ガーリチ公ロマンの娘と結婚したとみられ、1212年に父が没した。
1223年のカルカ河畔の戦いに加わり、チェルニゴフ公ムスチスラフが戦死すると、その後を継いでチェルニゴフ公となった。1224年にはノヴゴロド公を兼ねたが、義兄のユーリーや大貴族たちとただちに争い、捕虜の交換を行った。1226年にはユーリーの援助を得て、セヴェルスキーのオレグらに遠征した。1228年にはガーリチ公ダニールの領するカミャネツを包囲したが、失敗した。1229年のノヴゴロドでは、民の負担を軽くする政策をとった。ノヴゴロドを去ってからも市長を任命して介入したが、1231年にウラジーミル・スーズダリ大公ユーリーに攻められ、この地をめぐる争いから身を引いた。この時期のチェルニゴフの諸都市には考古学上、空前の繁栄が見られ、交易の振興を重んじたと考えられている。
1234年、イジャスラフの側に立ってキエフをめぐる争いに介入し、ダニールの軍を包囲した。翌1235年にはダニールの領地ガーリチを占領し、ミハイルがガーリチ公に、イジャスラフがキエフ大公となった。1237年秋には、モンゴルのルーシ侵攻に備えてリャザンへ向かったが、年代記によっては兵の供出を拒んだと記すものもある。1238年にヤロスラフが退くと、キエフ大公の座についた。ところが長男ロスチスラフとガーリチの大貴族の軍をリトアニアへ差し向けた隙に、ダニールにガーリチを奪われた。1239年、もしくは1240年初春にモンゴル軍がチェルニゴフに現れたとき、ミハイルはキエフにおり、ロスチスラフとともにハンガリーへ逃れた。チェルニゴフ、続いてキエフが陥落したのち、ダニールからルーツィクを封地として与えられた。
その後は荒れ果てたキエフに戻り、1243年までここを治めた。しかしロスチスラフの結婚のためにハンガリーへ向かっている間に、モンゴルの勅令でキエフはヤロスラフのものとされた。やがてモンゴル側に招かれてチェルニゴフへ戻ったが、1246年9月20日に殺害された。ある年代記は、バトゥの幕舎に呼ばれたミハイルが、異教の司祭から聖なる火と偶像を拝むよう命じられ、これを拒んで殺されたと伝え、遺骸は忠実な側近によってチェルニゴフへ運ばれたという。実際には、モンゴルの息のかかった公によって毒殺されたようだともされる。
1543年に聖者として大聖堂の聖者群像画に書き加えられ。1572年に遺体はチェルニゴフからモスクワへ運ばれ、1772年には不朽体として聖骨箱に納められてアルハンゲリスキー大聖堂に安置された。この聖骨箱は1812年のフランス軍の侵攻の際に盗まれ、以後は青銅のもので代用されている。遺体の移送後、ミハイルの名はロシア帝国で広く知られるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ2世 (オーストリア公) (1246年没)
- イザベラ・オブ・アングレーム (1246年没)
- ジョフロワ2世・ド・ヴィルアルドゥアン (1246年没)
- テオドラ・アンゲリナ (1246年)
- ベレンゲラ (カスティーリャ女王) (1246年没)
同じ地域に関係する人物
- Vsevolod Nestaiko (2014年没)
- Ivan Svitlychny (1992年没)
- 年代記者ネストル (1114年没)
- Volodymyr Dakhno (2006年没)
- ワンダ・ワシレフスカヤ (1964年没)