伝記
白河天皇は、1053年に生まれた日本の第72代天皇である。諱は貞仁といい、後三条天皇の第一皇子にあたる。母の藤原茂子と外祖父の藤原能信は幼いころに亡くなり、父の尊仁親王も関白の藤原頼通に冷遇されていた。1065年に13歳で元服し、1068年に父が即位すると親王宣下を受けて貞仁親王となった。翌1069年に立太子し、1071年には後の関白藤原師実の養女である藤原賢子が参入した。
1072年に後三条天皇から譲位され、20歳で即位した。藤原教通と師実を関白に任じながら、翌年に後三条上皇が病没したのちも父と同じく親政を目指し、荘園整理などに力を入れた。頼通と上東門院彰子が1074年に、教通が1075年に世を去ると、1081年には宇佐神宮の境内地に新宝塔院を建てるなど、摂関家の勢力を弱めることに努めた。父の後三条上皇と祖母の陽明門院は、異母弟の実仁親王、さらにその弟の輔仁親王に皇位を継がせる考えで、譲位の際に実仁親王を皇太弟と定めていた。白河天皇はこれに反発したが認めざるを得なかった。しかし1085年に実仁親王が亡くなると、翌1086年11月、輔仁親王ではなく実子で8歳の善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに譲位した。これが堀河天皇である。善仁親王の母で寵愛した中宮の賢子は、実仁親王が亡くなる前年の1084年に、若くして病没していた。
太上天皇となった白河上皇は、幼い帝を後見するため自ら政務を執り、いわゆる院政が始まった。ただし当初から強い権力があったわけではなく、師実とは協調を図り、政策の決まり方は摂関政治と大きな違いがなかったという。1096年には愛娘の媞子内親王の病没をきっかけに出家し、法名を融観として法皇となった。法勝寺をはじめ多くの寺院や仏像をつくらせ、その費用には受領の財力を用いたため、成功がいっそう盛んになった。
転機となったのは、1099年に関白の藤原師通が働き盛りで急逝したことと、1107年に堀河天皇が崩御して孫の鳥羽天皇が幼くして即位したことだとされる。若い摂政の藤原忠実が立ち、摂関政治の働きが弱まるなかで、法皇の手に権力が集まった。1113年に起きたとされる永久の変では、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。法皇は受領や武家出身の院近臣を用い、叙位や除目に深く介入して人事を握った。院の警護役として北面武士を置き、1102年と1120年には忠実の職権を停止して、摂関の権威の低下を示した。堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟には親王宣下も臣籍降下も認めず、出家させて皇位継承権を取り上げた。また藤原公実の遺児の璋子を養女として育て、鳥羽天皇の中宮とし、その子が崇徳天皇として即位した。孫の鳥羽、曾孫の崇徳と3代にわたり43年間院政を敷き、こうした権力者は後世「治天の君」と呼ばれる。
『平家物語』には、法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師」だけは思うようにならないと嘆いたという逸話がある。山法師とは、神輿を担いで都へ押し寄せて強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧たちを指す。また『十訓抄』には、天下に殺生を禁じたため魚をとる人が絶えたとあり、禁令を犯した僧が母に食べさせたかったと答えると、法皇はその心情に感動して罪を赦し、多くの物を与えて帰らせたという説話が見える。最晩年の1126年か翌年ごろには、自身の命による2つ目の勅撰集である金葉和歌集がおさめられた。1129年7月24日、77歳で崩御した。
同じ年に亡くなった人物
- コスタンディン2世 (1129年)
- アールモシュ (1129年没)
- トロス1世 (1129年没)
- レオポルト (シュタイアーマルク辺境伯) (1129年没)
- ドイツのルペルトゥス (1129年)