伝記
村上天皇は、日本の第62代天皇である。延長4年(926年)6月2日に生まれ、諱は成明という。第60代醍醐天皇の第十四皇子で、母は藤原基経の娘で中宮の穏子、第61代朱雀天皇の同母弟にあたる。第十四皇子でありながら、母が中宮であったために重んじられ、誕生と同じ年の11月に親王宣下を受けた。天慶3年(940年)2月に元服して三品に叙され、上野太守、大宰帥を経た。天慶7年(944年)4月に皇太子となり、2年後の天慶9年(946年)4月20日に朱雀天皇の譲位を受けて践祚し、4月28日に即位した。
先代に続き、天皇の外叔父にあたる藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去すると、以後は摂関を置かなかった。このため、延喜の時代とともに親政の典範とされた。しかし実際には、政治の実権は依然として摂関家の藤原実頼・師輔の兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も、後見を理由に政治に関わろうとしたため、親政は名目にすぎなかったともいわれる。平将門と藤原純友が起こした承平天慶の乱の後、朝廷の財政が苦しかったので、倹約に努めた。
文化の面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を命じ、天徳4年(960年)3月には内裏歌合を催した。歌人としても、歌壇の庇護者としても後世に評価されている。『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも通じていた。著書には三代御記のひとつ『村上天皇御記』と、和歌集『村上御集』がある。平安文化を開花させた天皇といえ、その治績は「天暦の治」として後世に仰がれた。一方で、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、官吏の人事にも公正さが失われたとされる。天徳4年の内裏焼亡をはじめ、数々の災難もあった。
『大鏡』には、鶯宿梅の逸話が見える。清涼殿の前の梅の木が枯れたので、天皇は代わりを探させた。都の外れの家に見事な紅梅が見つかり、主命として掘り返して運ぼうとすると、家の者が短冊を枝に結びつけ、このままお持ちくださいと頼んだ。移植された紅梅は以前の木に劣らず立派で、天皇も喜んだが、短冊に「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」という歌があるのに気づいた。歌の主がただ者ではないと察して調べさせると、その家の主人は紀貫之の娘の紀内侍で、父の死後、父が手入れした梅を形見として慈しんでいたことがわかった。天皇は「さても残念なことをしてしまったものだ」といったという。この歌は『拾遺和歌集』にも収められている。
后妃には、右大臣・藤原師輔の長女で中宮の安子がおり、その子に冷泉天皇となる憲平親王や、円融天皇となる守平親王がいる。女御には斎宮女御と呼ばれた徽子女王や、荘子女王らがいた。荘子女王との間には皇子の具平親王が生まれ、その子孫は村上源氏として、以後の宮廷政治に大きな影響力を持つようになる。康保4年(967年)5月25日、在位のまま崩御し、宝算は42であった。陵は京都市右京区鳴滝宇多野谷の村上陵に治定されており、葬送については山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られた記事が『日本紀略』に見える。皇居の宮中三殿のひとつ皇霊殿では、他の歴代天皇・皇族とともにその霊が祀られている。皇女の選子内親王は賀茂斎院を務め、大斎院と呼ばれた。皇女の輔子内親王は伊勢斎宮となった。追号の「村上」は御陵の在所に由来し、一条朝の頃にはすでに「村上の先帝」と呼ばれていた。
同じ年に亡くなった人物
- Vushmgir (967年)
- アル=カビーシー (967年没)
- ダフ (スコットランド王) (967年)
- ムイッズ・ウッダウラ (967年)
- アブル・ファラジュ・イスファハーニー (967年没)