伝記
子嬰は、中国秦の最後の君主である。秦王子嬰、秦三世とも呼ばれ、在位は紀元前207年。秦の皇族に生まれたが、続柄ははっきりしない。『史記』には始皇帝の弟とも、胡亥の兄の子とも、胡亥の兄とも書かれている。小説では扶蘇の子とされることがあるが、史書の裏付けはない。始皇帝の弟の成蟜の子で、趙で生まれ、紀元前239年生まれとする説もあり、その場合は項羽に処刑されたとき34歳ほどになる。
始皇37年(紀元前210年)に始皇帝が没すると、胡亥・趙高・李斯が詔を偽り、扶蘇を自害させ、蒙恬を獄につないで、胡亥が二世皇帝に即位した。趙高が蒙恬と弟の蒙毅を中傷して罪を探しているのを見て、子嬰は胡亥を諫めた。趙王遷、燕王喜、斉王建が忠臣を殺したり古来のやり方を変えたりして国を失い、災いが身に及んだ例を挙げ、蒙氏は秦の大臣であり謀士だと述べて、忠臣を誅殺し節操のない人物を取り立てれば、朝廷では群臣が互いを信じられなくなり、外地では戦士の心が秦から離れると訴えた。しかし胡亥は聞き入れず、蒙毅は殺され、蒙恬は自決した。陳勝・呉広の乱が起こり、反乱がやまないなか、李斯が阿房宮の中止などを諫めて捕らえられたときにも、子嬰は再び胡亥を諫めた。法を変えて忠臣を殺し、趙高に法を好きに扱わせれば報いを受けると述べたが、聞かれず、李斯は処刑された。
その後、項羽が鉅鹿で秦軍を大破し、章邯が項羽に降伏するなど、形勢は秦に不利になった。劉邦は武関を破り、趙高とひそかに連絡を取った。胡亥に処刑されることを恐れた趙高は、娘婿で咸陽令の閻楽、弟の趙成と謀り、子嬰を後継に立てようと決めた。子嬰は仁篤で控えめな人柄で、民も皆その言葉をいただいている、というのが趙高の言い分であった。閻楽のクーデターで胡亥は自殺に追い込まれ(望夷宮の変)、二世3年(紀元前207年)9月、趙高は子嬰を秦王に擁立した。
子嬰は斎戒に入り、5日たってから宦者の韓談と二人の子に、趙高が楚と約束して秦の宗室を滅ぼし関中の王になろうとしているらしい、宗廟で自分を殺す気だろうと打ち明けた。病と称して行かなければ趙高は必ず来るから、そのとき殺そうと決めた。趙高は数度使者を送り、ついには自ら出向いて、なぜ行かないのかと問うた。そこで子嬰は斎戒の宮中で趙高を刺殺し、三族を滅ぼして咸陽で公表した。
劉邦は嶢関で秦軍を破り、張良の策で下嶢と藍田も戦わずに降した。高祖元年(紀元前206年)10月、劉邦の軍が覇上に迫り、子嬰は首に組み紐をかけ、白い馬と簡素な馬車に乗り、玉璽を奉じて軹道で降伏した。即位から46日であった。劉邦の諸将には処刑を主張する者もいたが、劉邦は降伏した者を殺すのはよくないとして、子嬰を役人に任せ、身の安全を保証した。劉邦は覇上に父老や豪族を集め、法は三章のみとし、ほかの秦の法は除くと約束した。しかしその後、咸陽に入った項羽は、子嬰と秦の公子・宗族をすべて処刑し、咸陽を略奪して宮室を焼き払った。秦の土地は三つに分けられ、章邯らが王に封じられた。こうして秦は滅んだ。後世、賈誼は『過秦論』で、子嬰が反乱の理由を悟らなかったと評した。班固はこれに反論し、秦は積み重なった衰退によってすでに天下が瓦解していたのであり、わずかな間だけ王位にあった孤立無援の子嬰を責めるのは誤りだとし、趙高を討った決断を壮健と感じ、その志を哀れに感じると記した。
同じ年に亡くなった人物
- ハスドルバル (紀元前 206年)
- ペロプス (スパルタ王) (紀元前206年没)
同じ地域に関係する人物
- 馬謖 (228年没)
- 陸羽 (804年没)
- 荀子 (紀元前230年代没)
- 孟浩然 (740年没)
- Franz Regis Clet (1820年没)