HISTORICAL PERSON · 804年没

陸羽

唐代の文人で『茶経』の著者。捨て子とされ、寺で育てられたのち李斉物に学問を教えられた。安禄山の乱後は湖州に隠居し、14年の茶の研究を『茶経』にまとめた。岡倉天心は「茶道の鼻祖」と評した。

生涯
804年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(湖北省 / 天門市)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

陸羽は、中国の唐代の文人で、『茶経』の著者として知られる。名は疾とも書き、字は鴻漸、また季疵といい、桑苧翁や東崗子などと号した。生没年には諸説があり、728年頃、あるいは733年に生まれ、785年または804年に没したとされる。復州竟陵郡(現在の湖北省)の人とされ、茶文化への貢献から「茶聖」とも称される。近代日本の思想家岡倉天心は、著書『茶の本』で陸羽を「茶道の鼻祖」と評した。

出自は不明で、捨て子だったともいわれる。「陸」という姓は、彼を拾った竟陵の智積禅師の俗姓をもらったとも、易の卦にしたがって名付けられたともいう。幼いころ、智積は陸羽に俗書を学ばせようとしたが、陸羽は「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言って、儒教を学ぼうとして譲らなかった。怒った智積は牧牛などの苦役を課したが、陸羽はそれに励むかたわら、竹で牛の背中に字を書いていたという。のちに張衡の『南都賦』を手に入れたが読めず、正座して子どもたちのように口の中でぶつぶつ唱え、暗誦しているかのように振る舞った。智積はこれを咎めて拘束し、草刈りを命じた。陸羽は「歳月は過ぎ去っていくのに、どうして書を知らないままでいられようか」と嗚咽し、ついに逃げ出して役者に身を隠し、数千言に及ぶ滑稽な文章を作った。

別の伝えでは、陸羽は6年間山にこもって師の鄒夫子に学び、そのあいだ師のために茶をいれていた。学業の合間には野に出て茶葉や薬草を摘み、ある日、丸い岩の下から非常に澄んだ湧き水を見つけ、その水で入れた茶が格別に美味いことから、茶に良い水の大切さを悟ったという。752年に学業を終えて竟陵へ戻ったとされる。天宝年間に、竟陵太守の李斉物の目に止まり、書を教えられて学問を学んだ。孤児だった陸羽が知識人たちと交わるきっかけをつくったのが李斉物である。その後、竟陵司馬の崔国輔とも交わった。崔国輔は五言の短詩で名高い詩人で、陸羽より年長だったが、茶と文学と詩への関心を共にして親しい友となり、二人は旅をし、茶を飲み、詩を作って、詩集を共著したとも伝わる。陸羽の容貌は冴えず、吃音があったが、雄弁だったという。友人との宴会の途中でも、思うところがあれば席を立ち、約束は雨や雪の日、虎や狼が出ても守ったといわれる。また、『精行倹徳の人』を理想とした。

756年、安禄山の乱を避けて北方の知識人たちが江南へ逃れた。陸羽も760年のころ湖州の苕渓に避難し、庵を結んで隠居して桑苧翁と号し、著作を書き始めた。僧の釈皎然と親交を結び、野を一人で歩き回ったという。隠居中に朝廷から太子文学や太常寺太祝に任じられたが、辞退した。14年にわたる茶の研究を『茶経』にまとめ、その10年後の780年には補足を加えた『茶経』3巻を著した。『茶経』は茶の起源、栽培や飲み方、茶の道具を詳しく述べた最初の体系的な書で、3巻10章から成る。唐代以降は全体が1冊にまとめられ、3巻に分けた形は伝わらなくなった。茶を売る人々は陸羽の陶製の像を作り、「茶神」としてまつったという。

大暦年間には、湖州刺史として赴任した顔真卿のもとで『韻海鏡源』の編纂に加わった。新たに唐の南東部を監督することになった李季卿は、茶の名手として常伯熊と陸羽の名を知っていた。常伯熊を訪ねたときは茶碗を何度も掲げて敬意を表したが、陸羽を訪ねたときは、陸羽が村人の身なりをしていたため礼をしなかった。陸羽はこれを恥として、『毀茶論』を著したと伝わる。『君臣契』『源解』『陸文学自伝』などの著作もあったとされるが、いずれも散逸している。

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