HISTORICAL PERSON · 紀元前230年代没

荀子

中国戦国時代末の儒学者。趙に生まれ、斉で稷下の学士の祭酒となった。礼による統治と性悪説を説き、「青は藍より出て藍より青し」の語でも知られ、弟子の李斯がその国家像を秦の官僚制度として実現した。

生涯
紀元前230年代没
死亡地
西周(湖北省 / 楚)
出生地
趙
出典
世界地図
西周(湖北省)

伝記

荀子は、中国戦国時代の末に活躍した思想家であり儒学者である。諱は況、尊称して荀卿とも呼ばれ、漢代には孫卿とも呼ばれた。生年は紀元前298年とも紀元前313年ともされて定まらず、没年も紀元前238年以降とされるにとどまる。紀元前4世紀末ごろに趙に生まれたと伝えられる。

『史記』によれば、50歳になって初めて斉に遊学した。斉の襄王に仕え、斉が諸国から集めた学者たち、すなわち稷下の学士の祭酒に任じられた。稷下の学者のなかでは最年長で、三度にわたって列大夫の長官に任じられたという。のちに讒言によって斉を去り、楚の宰相であった春申君に用いられて蘭陵の令となった。任を辞したあともその地にとどまったとされる。後漢の荀彧・荀攸は、その末裔と伝えられている。

荀子の名を高めたのは、人間の本性を悪と見る性悪説である。人間の性は限りない欲望を抱く利己的なものだが、後天的な努力、すなわち学問によって修正し善へ向かうことができると説いた。この立場から、孟子の性善説を批判している。富国篇では、秩序がなければ人々は欲望のままに奪い合い、社会は混乱して窮乏するとし、人間はあえて君主の権力に服し、規範である礼に従うことで窮乏を脱したと論じた。この考えは、近代西欧に先行する最古の社会契約説とも評価される。勧学篇は「学は以て已む可からず」の句から始まり、終生学び続けることを求める。「青は藍より出て藍より青し」の成語は、この篇の言葉に由来する。

荀子にとって礼は、個人の倫理にとどまらず、国家を治める技術でもあった。君子は礼を学んで身につけ、法に従って統治し、法に定めのない案件は礼法の原理に基づく判断で処理すべきだとした。孔子や孟子にも礼を統治原理として捉える面はあったが、荀子はそれを前面に押し出した。また王制篇では、王公・士大夫の子孫でも礼儀に励まなければ庶民に落とし、庶民の子孫でも学問を積んで行いを正すなら卿・士大夫にまで昇進させよ、と実力主義を説いた。非十二子篇では、音楽の排斥や葬儀・生活の倹約を唱える墨家について、礼儀を軽んじ身分秩序の原理を軽視するものだと非難している。天論篇では、天を自然現象とみなして天人相関の思想を否定し、日食や流星は吉凶の兆しではなく、畏れる必要もないとした。

弟子には韓非・李斯・浮丘伯・張蒼などが記録に現れる。韓非と李斯は師の統治思想を批判的に受け継ぎ、法による統制を説いた。韓非は法家思想の大成者となり、李斯は秦帝国の官僚制度を実務の面で形にした。ただし法家思想そのものは荀子や韓非の生まれる前から存在しており、荀子から法家が生まれたというのは誤りだとされる。漢代には荀子の名声が儒者のあいだで大きく、『詩経』『書経』『春秋』の学にも荀子の伝承に出たものがあるという。

唐代の韓愈は、孔子・孟子に至る聖人の道を述べる中で、荀子を道を精しく伝えなかった者と評した。この評価が宋代儒学の道統の標準となり、朱子学のもとで荀子は異端として遠ざけられた。清代の考証学で再評価が進み、清末には王先謙が『荀子集解』を著した。日本の江戸時代には荻生徂徠が高く評価し、久保愛が『荀子増注』を著している。著作は前漢末に劉向が『孫卿新書』にまとめ、唐の楊倞が校訂・注釈して現行の32篇に整えた。出版物としての初刊は北宋の1068年で、その宋代の刊本は中国で散逸したが、日本の金沢文庫に一冊だけ残ったという。

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