伝記
ウラジーミル2世モノマフは、一〇五三年に生まれ、一一二五年五月十九日に没したキエフ大公である。在位は一一一三年から一一二五年で、洗礼名はヴァシーリー、父はのちにキエフ大公となるフセヴォロド1世、祖父はヤロスラフ1世である。あだ名のモノマフは東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスに由来するとされ、日本語版の記事は母をその皇帝の娘とするが、英語版の記事は母の名も出自も分からないとし、年代記に「ギリシアの公女」とあるだけだと注意を促している。十六世紀初めの物語には、モノマフが皇帝コンスタンティノス9世を戦争で破り、贈り物を受けてこの名を得たとする話があるが、その皇帝は一〇五五年に没しており、当時のモノマフはまだ幼く、英語版の記事はこれを事実ではないとしている。
若いころは父の名のもとでスモレンスクやチェルニゴフを治め、十三度の遠征を行ったとされる。一〇九四年に父が没すると従兄弟のスヴャトポルク2世がキエフを継ぎ、その混乱をついて遊牧民ポーロヴェツ族が侵入した。ストゥグナ川の戦いでスヴャトポルクとモノマフらの連合軍は敗れ、弟のロスチスラフは溺れ死に、キエフ周辺は荒らされた。もう一人の従兄弟オレグはポーロヴェツと結んでチェルニゴフを攻め、モノマフはペレヤスラヴリへ退いた。以後ペレヤスラヴリを主な相続地とし、ロストフやスズダリなど北方の土地も支配して、いくつかの都市を建設した。のちに大公国の首都となるウラジーミルも、その一つとされる。オレグとの敵対は子孫の代まで続いたという。
諸公が領地の相続をめぐって争う状況のなかで、モノマフは遊牧民との戦いに備えるため諸公会議を三度組織した。一〇九七年のリューベチ会議では、各公が現在の相続地を保つことで合意したが、その後も内紛は絶えなかった。一一〇三年から一一一一年にかけては、諸公が毎年のようにポーロヴェツへ遠征し、一一〇七年にはポーロヴェツのハーンの一人ボニャクを破り、一一一一年にはスヴャトポルクとともにサルニツァ川の戦いで敵を破った。これらの勝利によって遊牧民は草原の奥へと退き、ルーシへの新たな襲撃は抑えられたとされる。
一一一三年にスヴャトポルクが没すると、キエフでは住民が暴動を起こし、民衆に最も人気のあったモノマフの即位が求められた。このとき暴動は役人や富裕な市民、さらには前大公に協力したとされるユダヤ人にも向かったと英語版の記事は伝える。彼は平和裡に入城して大公となり、まず高利を抑えて民衆の不満の原因を取り除こうとしたと伝えられる。祖父ヤロスラフ1世が定めた法規ルースカヤ・プラウダを詳しくし補った「モノマフの法典」を作ったともされ、服属しない諸公から領地を取り上げて息子たちに与え、国土の大部分を支配下に置いた。自ら子らに書き残した訓戒では、生涯に大きな遠征を八十三回行い、ポーロヴェツと十九度和睦したと述べている。
私生活では三度結婚した。最初の妻はハロルド2世の娘とされるギータで、ムスチスラフ1世やヤロポルク2世、ヴャチェスラフ1世を含む五人の息子が生まれた。再婚相手はコンスタンティノポリスの貴族の娘エフィミヤで、のちにキエフ大公となるユーリー・ドルゴルーキーもその子とされる。モノマフの死後は長男ムスチスラフ1世が後を継ぎ、公国の安定を保った。東方正教会では聖人とされ、モノマフの冠はロシアのツァーリの象徴となった冠と伝えられ、彼に由来するとされている。
同じ年に亡くなった人物
- プラハのコスマス (1125年)
- ダヴィト4世 (ジョージア王) (1125年)
- ヴラジスラフ1世 (1125年没)
- ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝) (1125年没)
- テオフィルス (1125年)
同じ地域に関係する人物
- ウラジーミル1世 (1015年没)
- Kateryna Yushchenko (2001年没)
- ダニロ・ザボロトニー (1929年没)
- キエフのアントニー (1073年没)
- ソフィヤ・ナレピンスカ=ボイチュク (1937年没)