HISTORICAL PERSON · 1125年没

ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)

ザーリアー朝第4代にして最後のローマ王で、皇帝。父ハインリヒ4世に叛旗を翻し、1111年に教皇パスカリス2世を拉致して協約を結ばせた。1122年のヴォルムス協約で叙任権闘争に決着をつけた。

生涯
1125年没
死亡地
オランダ(ユトレヒト州 / ユトレヒト)
出生地
ドイツ連邦共和国(ゴスラー)
出典
世界地図
オランダ(ユトレヒト州)

伝記

ハインリヒ5世は、ザーリアー朝の第四代にして最後のローマ王であり、一一一一年に神聖ローマ皇帝の冠を受けた人物である。皇帝ハインリヒ4世とサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタの子で、生年は一〇八六年八月十一日とされるが、英語版の記事は一〇八一年か一〇八六年かはっきりしないと述べ、確実に分かるのは一一〇一年の復活祭に騎士の叙任を受けたことだけだとしている。少年期はレーゲンスブルクで過ごしたらしく、ユトレヒト司教コンラートが師であったとされる。

当時の帝国は、教会の叙任権をめぐる皇帝と教皇の争いのさなかにあり、父ハインリヒ4世は幾度も破門を受けていた。父は兄のコンラートを後継者に選んでいたが、コンラートが改革派の教皇側に走ったため、一〇九八年五月のマインツの帝国会議でその地位を奪われ、次男のハインリヒが後継者と定められた。一〇九九年一月六日にアーヘンでローマ王として戴冠したが、そこでも父に逆らわないという誓いを繰り返させられた。共同王とはいえ政治の実権は与えられず、破門された父のもとで諸侯が離れていくことを案じたハインリヒは、やがて兄と同じく父に背いた。有力な諸侯や教皇もこれを支持し、英語版の記事によれば一一〇五年十二月三十一日に父は退位を強いられ、一一〇六年初めにマインツで王位が承認されて、父はその後まもなく世を去った。英語版の記事は、父の退位を迫った動機について、教会改革への共感やバイエルンの若い伯たちの影響、あるいは一一〇四年にレーゲンスブルクで起きたジークハルト・フォン・ブルクハウゼンの殺害事件を父が適切に裁かなかったことへの不満など、研究者の間でも説が分かれていると伝えている。

即位したハインリヒ5世は、父の代から続く叙任権闘争を解決しようと一一一〇年にローマへ遠征した。翌一一一一年二月には教皇パスカリス2世と、国王が叙任権を放棄する代わりに教会が世俗の領地や権利を返すという急進的な合意を結んだ。ところがこの内容が戴冠式で公にされると、聖職者たちが強く反発して式は続行できなくなった。皇帝は兵を動かして教皇と高位聖職者たちをローマから連れ出し、ポンテ・マンモロで皇帝に有利な取り決めを結ばせたうえで、サン・ピエトロ大聖堂で改めて戴冠した。しかしイタリアを離れると教会側は皇帝を破門し、この協約はまもなく反故にされた。

その後はザクセン公ロタールを中心とする諸侯の勢力に苦しめられ、一一一九年七月にはマインツの王国会議で教皇との和解を約束させられた。交渉を重ねた末に、一一二二年九月二十三日にヴォルムス協約が成立し、叙任権闘争は一応の終結を見た。ドイツ王国内の司教や修道院長の選挙に皇帝が臨席することは認められたが、皇帝の神権的な性格は薄れ、ザクセン公の自立が進んで帝国内の混乱は収まらなかった。日本語版の記事は、この協約で皇帝が失ったのは目に見える権利よりも、カール大帝以来の神権的な皇帝権だったと論じ、「神聖帝国」の語が用いられるのは次のホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世が一一五七年に出した召集状からだとしている。一一二三年にはマイセン辺境伯領の継承をめぐって、ロタールらが皇帝の決定を覆した。

ハインリヒ5世は一一二五年五月二十三日、ユトレヒトで癌のため三十九歳で世を去り、シュパイアー大聖堂に葬られた。一一一四年に結婚したイングランドのマティルダとの間に嫡子はなく、これによってザーリアー朝は断絶した。次の王には甥のフリードリヒ2世も名乗りを上げたが、諸侯はロタールを選んだ。

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