HISTORICAL PERSON · 1105年没

レーモン4世 (トゥールーズ伯)

第1回十字軍の主要指導者の一人でトゥールーズ伯・プロヴァンス辺境伯。エルサレム王位を辞退し、後にトリポリ伯領の基盤を築いた。聖墳墓教会での乱闘で隻眼になったと伝わる。

生涯
1105年没
死亡地
レバノン共和国(北レバノン県 / レイモンド・ド・サン・ジル城塞)
出生地
—
出典
世界地図
レバノン共和国(北レバノン県)

伝記

レーモン四世は、トゥールーズ伯ポンスとアルモディス・ド・ラ・マルシュの子で、十一世紀半ばに生まれた。生年は一〇四一年ごろとも一〇五二年ごろともいわれる。父からサン=ジルを与えられて伯を称し、レーモン・ド・サン=ジルとも呼ばれた。初めの二度の婚姻は近親婚として無効とされ、長男ベルトランも庶子と見なされることがあった。一〇九四年、兄ギヨーム四世が死ぬと、その娘フィリッパを退けてトゥールーズを継いだ。同年にはプロヴァンス辺境伯の称号も得た。姪の夫であるアキテーヌ公ギヨーム九世は伯位を主張し、その後も争いが続いた。十字軍以前にはスペインでイスラーム勢力と戦い、聖地への遠征が呼びかけられると、諸侯の中でも早くから参加を誓った。

一〇九六年十月末、大軍を率いてトゥールーズを発った。教皇使節でル・ピュイ司教のアデマール、妻エルヴィラ、幼い息子が同行し、この子は旅の途中で死んだ。留守の統治は長男ベルトランに委ねた。アルプスと北イタリアを通り、冬にはスラヴ人の住む山地を進んだが、現地との取引や案内を得られず、後衛への襲撃も受けた。レーモンは襲撃をやめさせるため、捕虜六人の身体を傷つける処置を命じた。ドゥクリャの首都シュコドラでは、王コンスタンティン・ボディンと兄弟の契りを結び、多くの贈り物を与えた。ドゥラッツォを経て、一〇九七年四月末にコンスタンティノープルへ着いた。皇帝アレクシオス一世への臣従の誓いは拒んだものの、友好を誓い、双方の敵となるボエモンに対して協力する関係を結んだ。

ニカイアの包囲とドリュラエウムの戦いに参加し、同年十月からのアンティオキア包囲で大きな役割を担った。市が放棄されたという噂を聞いて先に軍を送ったことは、同じく領有を望むボエモンを怒らせた。実際には守備兵が残っており、攻略は翌一〇九八年六月となった。レーモンは総督ヤーギー・シヤーンの邸宅や橋門の上の塔を押さえた。ケルボガの援軍に逆包囲された際には病に伏していたが、配下のペトルス・バルトロメオが聖槍を発見したと主張し、兵の士気を高めた。包囲を破った後も市をボエモンに譲ることを拒み、皇帝に返還する誓約を守るべきだと求めた。仲裁役のアデマールの死後、両者の対立は深まった。

レーモンはトリポリにも独自の領土を求めたが、兵たちはエルサレムへの進軍を望んだ。一〇九九年にはゴドフロワらとともに聖地を攻略した。王位に推されたが、キリストが磔にされた土地で王と呼ばれることを望まず、辞退したとされる。続くアスカロンの戦いにも加わったものの、市の占領をめぐってゴドフロワと争い、攻略には至らなかった。その後コンスタンティノープルに滞在し、一一〇一年の十字軍と合流したが、小アジアで敗れた。再び皇帝のもとへ戻り、援助を得てトリポリ攻略に取り組んだ。

妻エルヴィラはカスティーリャ王アルフォンソ六世の娘で、一一〇三年に息子アルフォンスが生まれた。トリポリを目指す途上、一一〇五年二月二十八日に死去した。包囲は甥ギヨーム・ジュールダンに引き継がれ、その後ベルトランが取って代わった。一一〇九年、ベルトランはトリポリを陥落させ、伯国を成立させた。

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