伝記
ユーグ1世は、1057年、フランス王アンリ1世とアンナ・ヤロスラヴナの子として生まれた。国王フィリップ1世の弟である。ヴェルマンドワ伯エルベール4世とアデライード・ド・ヴァロワの娘アデライードを妻とし、義兄弟ウードが相続から外された後、妻の権利によって1085年からヴェルマンドワ伯となった。カペー家からこの伯位に就いた最初の人物であった。同年には、イングランドへの侵攻を計画したデンマーク勢に対し、ウィリアム征服王を支援したとされる。ユーグは大伯とも呼ばれるが、その呼称は必ずしも功績の大きさを示すものではない。兄王に対して若い方を意味した古フランス語の異名が、ラテン語へ移される際に誤訳された可能性がある。
1096年初め、クレルモンの教会会議の知らせがパリへ届くと、兄弟は十字軍について話し合った。破門されていたフィリップは参加できなかったが、ユーグは2月11日の月食を見たことにも促され、遠征を決めたという。8月末にフランスを発ち、アルプスとローマを経てバーリへ向かった。他の多くの諸侯が陸路を選ぶ一方、ユーグはアドリア海を船で渡った。東ローマ皇帝アレクシオス1世には身分にふさわしい出迎えを要求し、デュッラキウムの統治者へも24人の使節を送った。使節は、ユーグがローマから聖ペテロの金色の旗を携えて来る、フランク軍の最高指揮官である、と告げたとされる。しかし艦隊は渡海中に嵐に遭い、多くの船を失った。本人の船もエピルス近くの浜へ流され、救出後にデュッラキウムへ運ばれた。統治者ヨハネス・コムネノスは宴を設け、休息を取らせた。
その後ユーグは、マヌエル・ブトゥミテスの厳しい護衛のもと、コンスタンティノープルへ向かった。皇帝と謁見し、その説得を受けて臣従を誓った。トルコ勢の侵入前に帝国に属していた土地を取り戻した際には、帝国へ返すという誓約も求められた。皇帝はユーグがこの約束を受け入れるまで、露骨な扱いを避けながらも行動の自由を制限したとされる。さらに東方で新たに征服する土地については、封土として保持することになった。ユーグは他の指導者にも同じ対応を勧めた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンから、高い身分を捨てて皇帝の奴隷に成り下がったのか、と非難されたときには、故国を遠く離れた以上、皇帝の保護が必要であり、その命令に従わなければ事はうまく運ばない、と答えたという。十字軍はセルジューク領を進み、1098年には長い包囲の末にアンティオキアを占領した。ユーグは援軍を求めて皇帝のもとへ戻ったが、要請は受け入れられなかった。
ユーグはアンティオキアへ引き返さず、フランスに帰国した。エルサレムへの巡礼を果たすという誓いを守らなかったため、故国では軽蔑や嘲笑を受け、教皇パスカリス2世からも破門を示唆された。そこで1101年の十字軍に加わり、再び聖地を目指した。しかし同年9月、ヘラクレアでキリジ・アルスラーン1世の率いるトルコ軍と戦って負傷した。タルススへたどり着いたものの、傷がもとで10月18日に死去した。アデライードとの間には九人の子供がおり、そのうち息子ラウル1世が次のヴェルマンドワ伯となった。
同じ年に亡くなった人物
- 蘇軾 (1101年没)
- ハインリヒ (フリースラント辺境伯) (1101年没)
- Yennenga (1101年(推定))
- ムスタアリー (1101年没)
- ルッジェーロ1世 (シチリア伯) (1101年没)
同じ地域に関係する人物
- ウード1世 (ブルゴーニュ公) (1103年没)
- フロリアヌス (276年没)
- タルススのゼノン (紀元前200)
- Ahmet Kirecci (1979年没)
- Ozgecan Aslan (2015年没)