伝記
マルクス・アンニウス・フロリアヌスは、軍人皇帝時代のローマ皇帝である。没年は276年で、生年は分かっていない。在位は3か月に満たず、日数では88日間とされる。古典史料に彼の生涯や治世を伝える記述はごく少なく、多くは断片的な情報に頼るほかない。皇帝としての在位は276年の夏から9月にかけてのことである。
ローマ皇帝タキトゥスの異母弟にあたるとされる。『ローマ皇帝群像』は彼を兄弟と記し、ある箇所では異母兄弟としている。現代の歴史家は、二人の氏族名が異なることから、異母兄弟とする説を好むが、ロナルド・サイムのように、ギリシア語の史料に基づいて、二人の間の血縁そのものを疑う研究者もいる。同書は、フロリアヌスには多くの子がいたことも示唆している。275年末にタキトゥスが皇帝に即位すると、まもなく近衛隊長に任じられ、ゴート族の侵入を退けるため、パンノニアへ軍を率いるよう命じられた。
276年、タキトゥスが急死した。暗殺説も伝わるこの死のあと、フロリアヌスは自ら皇帝を称した。ある記述では、ヒスパニア、ブリタニア、ガリア、マウリタニアなどの西方属州の軍隊に推挙されたと述べ、元老院の支持が当初なかったため、硬貨を鋳造しつつ元老院に支持を要請したとされる。一方で、元老院と西方属州から承認されたとする記述もあり、食い違っている。ともあれ、彼は蛮族との戦いに軍を向けた。ゲルマン系のヘルール族と戦うために軍を率いていたとする記述もあり、ゴート族に対して大きな勝利を収めたともいわれる。その勝利の知らせが広まる前に、東方で反乱が起きた。
東方属州の軍隊は、アウレリアヌス、タキトゥスの下でも功を上げた将軍プロブスを皇帝に選び、エジプト、シリア、パレスチナ、フェニキアがこれを支持した。プロブスは経験豊かな将軍だったが、帝国の一部からしか支持を得られず、不利な立場にあった。そこで彼は、エジプトの穀物の供給を握って帝国のほかの地域への流れを断ち、小アジアでキリキア門の防衛に就いた。フロリアヌスは軍を率いてキリキアへ向かい、タルソスに兵を置いた。ある記述では、両軍はキリキア近郊で遭遇したが、兵力に劣るプロブスは決戦を避けて、消耗戦に持ち込んだとされる。夏の暑さに慣れていない兵士の多くが暑さで病み、プロブスは町の周辺に襲撃を仕掛けて士気を削いだ。この戦略は成功し、フロリアヌスは軍の統制を失い、9月に部下の裏切りに遭って殺害された。
治世の長さについて、史料には食い違いがある。354年の年代記は88日間、エウトロピウスは約2か月と20日、アウレリウス・ウィクトルは1、2か月ほどと伝える。帝政人名録の著者たちは、276年6月7日から9月9日と具体的な日付を示している。短い治世にもかかわらず、貨幣は種類が豊富で、軍人としての勇気をたたえるものや、「世界の平和をもたらす者」「世紀の復興者」と呼ぶものがある。「永遠の勝利」を刻む貨幣もあり、来たるべき黄金時代への期待を映したものと見られている。銘文の一つは276年の執政官職に触れており、タキトゥスが彼を執政官に指名するのを許されなかったとする『ローマ皇帝群像』の記述は、信頼しにくいとされる。
同じ年に亡くなった人物
- バハラーム1世 (276年没)
- マルクス・クラウディウス・タキトゥス (276年没)
同じ地域に関係する人物
- マアムーン (833年没)
- ウード1世 (ブルゴーニュ公) (1103年没)
- タルススのヘルモゲネス (300年没)
- ユーグ1世 (ヴェルマンドワ伯) (1101年没)
- Ahmet Kirecci (1979年没)