伝記
蘇頌は、一〇二〇年十二月十六日に生まれた北宋の官僚であり、天文、機械、薬物などを研究した学者である。字は子容、泉州同安県の出身で、父は蘇紳という。若いころから天文学や暦に関心を持ち、地方の試験では中国の暦の原理と構成を論じた文章で優れた成績を収めた。一〇四二年に進士に及第し、官僚の道へ進んだ。政務や財政にも通じ、外交官としても働いた。また詩を作り、画家李公麟の作品をたたえ、古い美術品の収集にも関心を寄せた。朝廷では司馬光らの保守派と王安石らの改革派との対立から距離を置こうとしたが、周囲の協力者には保守派が多かった。
一〇六一年にまとめた『本草図経』は、もとは二十巻からなる薬物の書であり、植物だけでなく鉱物、動物、冶金にも内容が及んだ。一〇六三年には漢代の古典『淮南子』を校訂し、序文を加えた。一〇七七年には北方の契丹の王朝、遼へ使節として派遣された。遼は独自の暦を用いており、暦の知識の交換が訪問の重要な話題となった。蘇頌は宋の暦では冬至とされる日に遼で祝賀に出ようとしたが、遼の暦では冬至は翌日であったという。帰国後、遼の暦の方が正確であることを皇帝に伝え、宋の天文と暦を担当する官署には罰金や処罰が科された。
吏部で勤務した後、一〇八六年に刑部の長官となった。学術機関の長や、皇太子の教育にあたる官職も務めた。哲宗の命を受けて、水の力で動く天文時計、水運儀象台を設計した。開封に建てられたこの装置は、時を測る機構と天体を表す渾天儀を組み合わせたものである。動力を一定の間隔で制御する脱進機を備え、天梯と呼ばれる鎖による伝動の仕組みを用いた。脱進機には僧一行や梁令瓚の渾天儀に先例があったが、蘇頌は渾天儀を機械時計に組み込んだ。天梯はローラーチェーンにあたる装置として示されている。時刻を知らせ、音を鳴らすための機械的な仕掛けも組み込まれ、その数は百三十三に及んだとされる。官僚としては、政務の中枢で副長官にあたる地位にも昇った。一〇九二年に工事が完成し、蘇頌は宰相に任じられた。
蘇頌は装置を説明する『新儀象法要』を著し、内部の構造や天梯の図、星図などを載せた。同書は一〇九二年に成立し、一〇九四年には正式に印刷刊行された。星の地図のほか、地図や薬学の著作も残し、詩文集は七十二巻に及ぶ。一〇九七年に退官し、一一〇一年六月に死去した。死後は魏国公を追贈され、正簡と諡された。水運儀象台は一一二七年、女真の軍の侵攻によって解体された。再建の試みもあったが、成功しなかった。後に中国を訪れたマテオ・リッチやニコラ・トリゴーは、鎖で動力を伝える中国の時計に簡単に言及した。初期のヨーロッパ人訪問者には、中国の時計は水時計や火時計、日時計にとどまると誤解する者もおり、機械時計を新たに提供できる技術と考えていた。一方、明代の文章にも、中国の機械時計の設計の歴史が記されている。蘇頌の装置を記した書物は残り、後にジョゼフ・ニーダムらの研究対象となった。一九九七年には京都大学で完全な復元が行われた。『本草図経』そのものは失われたが、『証類本草』に引用された部分をもとに、散逸した文章を集めた本が作られている。
同じ年に亡くなった人物
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- 道宗 (遼) (1101年没)
- コンラート (イタリア王) (1101年没)
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