伝記
フセスラフ・ブリャチスラヴィチは、1029年か1030年ごろ、ポロツク公ブリャチェスラフの子として生まれた。キエフのウラジーミル1世とログネダの曾孫に当たり、洗礼名はヴァシリーである。母の名は伝わらない。頭に膜をかぶって生まれ、魔法使いたちの勧めでその膜を生涯頭に巻いたという伝説を持つ。1044年に父が死去するとポロツク公位を継いだ。その治世の11世紀半ばには、ポロツクの聖ソフィア大聖堂が完成した。1060年にはイジャスラフ、スヴャトスラフ、フセヴォロドらとともにトルク族への遠征に参加し、相手をドン川方面へ追いやった。同じころ結婚したとされる。
1065年にはプスコフを包囲したが、撃退された。1066年から1067年にかけての冬、ノヴゴロドを襲撃し、町を焼いて聖ソフィア大聖堂の鐘や財物を奪った。持ち去った品はポロツクの同名の大聖堂を飾るために用いられたという。この攻撃に対し、イジャスラフら三兄弟は軍を集め、ポロツク領のミンスクを攻略した。住民の男子は殺され、女子供は捕虜となった。フセスラフは迎撃に出たが、1067年3月3日のネミガ川の戦いで敗走した。同年、三兄弟は十字架に口づけして安全を誓い、和睦を申し出た。これを信じて会見へ向かったところ、オルシャ川のほとりで捕らえられ、二人の息子とともにキエフの牢獄へ入れられた。
1068年、イジャスラフらはポロヴェツ族との戦いに敗れた。キエフへ戻った大公に対し、住民の集会は武器を与えて徹底抗戦するよう求めたが、受け入れられなかった。その結果、住民が蜂起し、9月15日にフセスラフを牢から解放して大公に据えた。イジャスラフはポーランドへ逃れた。フセスラフのキエフ支配は七か月続いたが、1069年、イジャスラフがポーランドのボレスワフの軍とともに戻ると、迎撃の途中でベルゴロドから夜中に離脱し、ポロツクへ逃れた。大公位を回復したイジャスラフはフセスラフをポロツクからも追放し、自分の息子たちを公に置いた。同年10月23日、フセスラフは再びノヴゴロドを攻めたが、グレプの率いる軍にグゼニ川付近で敗れた。
1071年、スヴャトポルクを追ってポロツクを奪い返したものの、同年にはヤロポルクとの戦いに敗れた。1073年、キエフの公たちの間では、イジャスラフがフセスラフと手を結ぼうとしているという疑いが対立の理由となり、イジャスラフは兄弟に追放された。1077年春にもフセスラフはグレプやウラジーミルと戦った。1078年にはスモレンスクを焼いたが、冬には報復の軍がポロツク領を侵し、ルカムリなどの町々にまで進んだ。1084年にはウラジーミルがミンスクを攻略し、家畜や捕虜を奪ったが、その際のフセスラフの行動は分かっていない。
1093年以後は同世代のリューリク家の最年長者となったが、父がキエフ大公でなかったため、大公位の継承からは外されていた。1101年4月に死去し、没日は14日とも24日ともいわれる。ポロツクの聖ソフィア大聖堂に葬られた。後の『イーゴリ遠征譚』では、狼に変身し、遠くキエフにいても故郷の鐘を聞く者として描かれた。口承叙事詩に登場する変身能力を持つ勇士ヴォルフのモデルとも考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ムスタアリー (1101年没)
- ルッジェーロ1世 (シチリア伯) (1101年没)
- コンラート (イタリア王) (1101年没)
- サモラのウラカ (1101年)
- 蘇頌 (1101年没)
同じ地域に関係する人物
- Josaphat Kuntsevych (1623年没)
- Tomasz Zan (1855年没)
- エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃) (1513年没)
- イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ポロツク公) (1001年没)
- コンスタンチン・パヴロヴィチ (1831年没)