伝記
ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、中世フランスの貴族で、第1回十字軍の指導者の一人である。1060年ごろにウスタシュ2世の次男として生まれ、1100年7月18日に没した。母イドはゴットフリート顎髭公の娘で、生誕地はブローニュとされるが、13世紀の年代記にはブラバン・ワロン州の生まれとするものもある。次男であったため出世の機会は兄より少なかったが、母方の叔父ゴットフリート4世が子を持たずに亡くなったことで、フランスとドイツの緩衝地帯として政治的に重要な下ロレーヌ公国に関わることになった。
1076年、後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は自分の息子を下ロレーヌ公に任じ、ゴドフロワにはブイヨンなどの地域だけを与えたという。言い伝えでは、これは彼の忠誠を試すためであった。ゴドフロワは叙任権闘争で教皇グレゴリウス7世と争うハインリヒ4世を支え続け、シュヴァーベン公ルドルフの軍勢と戦い、皇帝がローマに入った際にはイタリアにも従軍した。この功により、1086年に下ロレーヌ公に任じられたとされる。しかし公領の相続権をめぐって叔母のマティルデ女伯が挑戦し、ナミュール伯らの中小諸侯も同盟して、公領の分割占領をたくらんだ。ゴドフロワは兄弟のウスタシュやボードゥアンの助けを得て戦い、1087年に敵の同盟を破ってロレーヌを守った。ただし当時はまだ弱小の諸侯にすぎず、十字軍に参加するまでドイツ諸侯の表舞台には現れなかった。
1095年に教皇ウルバヌス2世が十字軍を呼びかけると、ゴドフロワは領地を売り払って軍勢を整え、兄ウスタシュ3世や弟ボードゥアンとともに1096年に出発した。約4万人ともいわれるロレーヌ軍を率い、民衆十字軍と同じ経路で東へ進んだ。この過程でラインラントのユダヤ人が襲われた事件について、約50年後のヘブライ語文献は、ゴドフロワも加わろうとしたが、皇帝ハインリヒ4世の禁止によって関与しなかったと伝え、マインツとケルンのユダヤ人指導者が500マルクを送ったとも記す。同年11月にコンスタンティノープルへ着き、皇帝アレクシオス1世に忠誠を誓った諸侯の一人となった。1097年5月にはビザンツ軍とともにニカイアを包囲したが、ゴドフロワはあまり活躍せず、包囲戦はボエモンが指揮した。6月にはビザンツ軍が秘密裏に守備兵と交渉して単独で市を占領し、十字軍との間に不信感が生じた。同年、セルジューク軍の奇襲を受けたボエモンの軍を、別の場所に宿営していたゴドフロワが少数の騎馬隊で救援したという。1097年9月から1098年6月まで続いたアンティオキア攻囲戦にも参加し、進軍中に熊に襲われて大怪我を負ったと伝える文献もある。
1099年6月にエルサレムへ着いた十字軍は、イタリア人水兵が提供した木材で攻城兵器を造り、7月14日から15日にかけて攻撃した。ゴドフロワは指揮下の数人の騎士とともに最初に城壁を押さえ、エルサレムの陥落に大きな役割を果たしたとされる。同月22日、レーモン4世が王位への推戴を拒むと、ゴドフロワが代わって初代の統治者に選ばれたが、彼は「エルサレム王」を名乗るのを避け、「公」や「聖墳墓守護者」などと称したと伝わる。エルサレム陥落後は病院施設に寄進したとも伝わる。その後、アスカロンでファーティマ朝軍と戦って王国を守り、この勝利をもって第1回十字軍は終わったとみなされている。1100年7月に亡くなり、王位は弟のボードゥアンが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- レオンティ・ムロヴェリ (1100年没)
- アルベリック (1100年代没)
- のっぽのトルケル (1100年(推定))
- Goffredo Malaterra (1100年没)
- 哲宗 (宋) (1100年没)
同じ地域に関係する人物
- ルーヴェン・シロアッフ (1959年没)
- アムノン・リプキン=シャハク (2012年没)
- Ibrahim tooqan (1941年没)
- ミリアム・リヒタイム (2004年没)
- ゲルショム・ショーレム (1982年没)