伝記
トゥトゥシュは、セルジューク朝のスルターン、マリク・シャーの弟で、シリアを拠点に勢力を広げた君主である。兄によって一〇七七年にシリア総督に任じられ、同年後半にはサービク・イブン・マフムードが治めるアレッポを攻撃し、三か月にわたって包囲した。一方、南のダマスカスでは、トゥルクマーンの部族長アトスズが独立した勢力を築いていた。一〇七八年から翌年にかけてファーティマ朝の軍勢が同市を包囲すると、トゥトゥシュは援軍として派遣された。包囲をしのいだ後にはアトスズを処刑し、ダマスカスを自らの拠点とした。さらにシドン、ティベリア、ラムラ、ヤッファ、エルサレムなどを占領し、エルサレムの統治は配下の将軍に委ねた。アトスズが着手していたダマスカスの要塞建設も引き継ぎ、その時代に軍事施設と居住区域の整備が進み、要塞が完成したと考えられている。
シリア各地で領地を得た後、再びアレッポに向かったが、兄に求めた増援はアラブの部族連合の待ち伏せに遭って敗走した。トゥトゥシュが砂漠へ退いた部族民を追撃している間に、アレッポの住民が城外の陣営を襲い、守備隊を殺害して兵糧を奪った。このため退却して越冬せざるを得なくなったが、一〇八〇年には再攻撃に取りかかり、マンビジなど周辺の拠点を押さえた。アレッポを狙っていたのはトゥトゥシュだけではなかった。アナトリアを基盤とするセルジューク王族スライマーン・イブン・クタルミシュも、一〇八四年にアンティオキアを占領した後、アレッポへ進出しようとしていた。
スライマーンの包囲を受けたアレッポでは、代表者のハサンがトゥトゥシュに町の引き渡しを約束した。一〇八六年、両者の軍勢は市の近郊で戦い、トゥトゥシュが勝利した。スライマーンは戦死し、その子キリジ・アルスラーンは捕虜となった。同年五月、トゥトゥシュは内城を除く市街を占領し、十月まで滞在した。しかしマリク・シャーの軍勢が近づくとダマスカスへ移り、十二月にアレッポに到着した兄は、アクスンクル・アル=ハージブを同市の総督に任じた。兄はアンティオキアにはヤーギー・シヤーン、エデッサにはボザンを置き、北シリアの主要都市をそれぞれのアミールに治めさせた。アレッポの内城も、兄以外には引き渡されなかった。
一〇九二年にマリク・シャーが死ぬと、トゥトゥシュはシリアを支配下に置き、スルターンを称した。さらにジャズィーラ地方へ進み、アミダやモースルを獲得したが、支持者だったボザンとアクスンクルが甥バルキヤールクの即位を支持して離反したため、一〇九三年十二月に退却した。翌年には反撃に転じ、六月から七月にかけてテル・スルターンで両者を破った。二人は戦死し、捕虜となった将軍ケルボガはホムスへ連行された。トゥトゥシュはアリー・イブン・ファラムルズと東へ進み、ハマダーンに達してバルキヤールクをエスファハーンへ退かせたが、一〇九五年二月二十五日、レイ近郊の戦いで敗れ、アリーとともに命を落とした。その首はバグダードでさらされた。死後、アレッポは息子リドワーン、ダマスカスはその弟ドゥカークが支配し、領土は分裂した。二人はいずれもマリクを称し、イランの大セルジューク朝の宗主権を認めなかった。
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