伝記
アル・ムータミド・イブン・アッバードは、一〇四〇年または一〇四一年にアンダルス西部のベージャで生まれた、セビーリャのアッバード朝の王である。父はアル・ムータディドで、祖父以来続く王家に育った。父は早くから統治に備えさせようとし、十二歳ほどの息子をオヌバの総督に任じた。若いころから詩人イブン・アンマールと親しくなり、詩への愛を共有した。十三歳でアミールの称号を与えられた際には、この詩人が宰相を務めたとされる。しかし、息子に及ぼす影響を警戒した父は、やがてイブン・アンマールを追放した。また、散歩中に詠んだ詩の続きを、洗濯をしていた奴隷の娘イーティマードが即興で完成させ、その才と美しさにひかれて妻に迎えたという伝承がある。ただし、二人が出会った場所はセビーリャともシルヴェスともいわれ、確かではない。一〇六六年には兄弟ジャービルとともにマラガ攻略の軍を率いた。長い包囲にもかかわらず抵抗は強く、バーディース・イブン・ハッブースの救援軍に敗れてロンダへ退いた。父の怒りを解こうと、この地で長い詩を作って送ったという。
一〇六九年に父が死ぬと、セビーリャの支配を継いだ。即位後、イブン・アンマールを呼び戻し、シルヴェス総督やセビーリャ政府の宰相などの高い地位を与えた。自身もアラビア語で詩を書き、詩人たちと過ごす時間を重んじた。その治世にはイブン・ザイドゥーン、イブン・アルラッバーナらが活動し、セビーリャでは都市や建築の発展も進んだ。領土は西ではグアダルキビール川下流とグアディアナ川の間に広がり、ニエブラ、ウエルバ、サルテス周辺を含んだ。南ではモロン、アルコス、ロンダからアルヘシラス、タリファに及んだ。コルドバを一〇七〇年に獲得し、一〇七五年には失ったものの、一〇七八年に奪い返した。
王と宰相の親密さは続かなかった。イブン・アンマールが遠征中に王子ラシードを捕虜にされる事態を招き、また主君の権利を認めずムルシアの支配者を称したことが、対立の理由とされる。二人は激しく非難し合う詩を交わした。やがてムルシアは失われ、イブン・アンマール自身も捕虜になった。さらに若い王子と結んで父王に対抗しようとしたため、ムータミドは激怒して自らの手で旧友を殺したという。その後は深く悲しみ、盛大な葬儀を行ったとされる。領土を広げる一方で、王家はカスティーリャ王への貢納を負担していた。その支払いは国力を弱め、納付をやめるとアルフォンソ六世がセビーリャを包囲した。
一〇八五年にトレドを征服したカスティーリャ王に対抗するため、ムータミドはモロッコのムラービト朝に援助を求めた。王子ラシードはユースフ・イブン・ターシュフィーンを招くことに反対したが、父は受け入れなかった。一〇八六年にはユースフを支援してサグラハスの戦いに加わり、カスティーリャ軍を破った。しかしアルヘシラスに拠点を得たムラービト朝は、やがてアンダルスのイスラーム諸国を併合し、一〇九一年にはセビーリャにも攻め込んだ。市が荒らされると、ムータミドは息子たちの命を守るため、王の城塞を明け渡すよう命じた。自身は捕らえられてモロッコのアグマートへ流され、四年後の一〇九五年に拘禁中のまま死去した。暗殺された可能性もいわれ、墓はアグマートの郊外にある。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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