伝記
エドワード・マイブリッジは、1830年4月9日に生まれ、1904年5月8日に没したイギリス生まれの写真家である。本名はエドワード・ジェームズ・マガーリッジという。イングランドのキングストン・アポン・テムズで生まれ、1855年にアメリカに移住して、カリフォルニア州サンフランシスコで出版業界に身を置くようになった。
1872年、カリフォルニア州元知事リーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていた、ギャロップする馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。スタンフォードはマイブリッジに、2,000ドルで写真の撮影を依頼した。馬の一瞬を撮るには、高速のシャッターと高感度の感光材料が必要だった。当時の感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作し、結局5年と5,000ドルを費やして、1877年7月1日に一枚の写真を撮影し、議論に決着をつけた。
スタンフォードの依頼から成果を挙げるまでの5年は、技術的課題だけでなく、殺人事件にも費やされた。1874年10月17日、マイブリッジは妻の愛人であるハリー・ラーキンス少佐を、嫉妬にかられて射殺した。殺意が明らかであったにもかかわらず、裁判では正当防衛として無罪となった。この殺人は周囲からフロンティア的な正義として黙認されたが、彼は判決後、中央アメリカへ去った。この一件は108年後の1982年、作曲家フィリップ・グラスによって「写真家」という室内オペラにされた。
翌1878年6月15日には、この装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影に成功した。シャッターは当初ゴムやスプリングを用いたが、安定して高速度を得るため電気式に改良され、露出時間は1/1,000秒から1/6,000秒が得られた。この撮影は、前足は前方に、後ろ足は後方に伸ばして走るという、ヨーロッパの絵画表現で支配的だった描き方が事実と異なることを示した。さらに、得られた連続写真で動きの錯覚をもたらし、衝撃を与えて喝采を浴びた。まずゾエトロープと組み合わされ、次に幻燈機のように投影する装置「ゾープラクシスコープ」が作られた。投影されたのは写真ではなく、写真をもとに描かれた絵だった。1879年にスタンフォードと友人らの前で上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。この連続写真に大いに触発されたエジソンが、のちにキネトスコープを発明し、これがシネマトグラフにつながって、映画が誕生することになる。
1882年に出版された本をめぐって争いが生じた。スタンフォードの友人の医師が書いた、馬の脚運びの発見についての本には、マイブリッジの写真が掲載されず、タイトルページにも名前がなかった。彼は名誉棄損でスタンフォードを訴えたが、自分の功績を強調しすぎたため、裁判所は訴えを退けた。そのころには別の後援を得ており、ペンシルベニア大学からの支援で2年間研究を行い、750種類、10,000枚に及ぶ写真を残した。1894年にイングランドに戻り、自身の仕事に関する2冊の通俗書を出版した。1904年、生活していたキングストン・アポン・テムズのいとこの家で、74歳で死去し、遺骨はウォーキングに葬られた。
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