伝記
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、1860年1月29日に、アゾフ海に面した港町タガンログで生まれたロシアの劇作家であり、多くの短編を遺した小説家である。父パーヴェルは雑貨店を営み、母はエヴゲーニヤといい、その3男であった。兄にアレクサンドルとニコライ、弟にイヴァンとミハイル、妹にマリヤがいる。父方の祖父エゴールは農奴だったが、1841年に領主に身代金を支払って、一家の自由を獲得した。1867年にギリシア系の学校に入り、翌年ロシア系のタガンログ古典科中学に入学した。1876年に一家は破産し、夜逃げしてモスクワに移住したが、アントンだけは残って学業を続けた。このころから詩や戯曲を書いていたといわれるが、作品名が伝わるだけで、作品そのものは現存していない。
1879年に中学を卒業し、モスクワに移ってモスクワ大学医学部に入学した。生活費を稼ぐため、アントーシャ・チェホンテーなど複数のペンネームで雑誌にユーモア短編を寄せるようになった。学業と作家活動を兼ねる多忙な日々で、友人が家を訪ねても、父が「いまアントンは忙しいから」と面会を断ることが多かったという。1884年に医学部を卒業して医師の資格を得、自宅で診察も行った。同年12月に結核にかかって喀血し、以後、死去するまで結核に悩まされた。1885年末には首都のサンクトペテルブルクに滞在して、文壇に歓迎され、親友となるスヴォーリンとの交友が始まった。
駆け出しのころはユーモア短編を主に書いていたが、転機となったのは、1886年に老作家グリゴローヴィチから受けた激励と忠告だった。才能を称賛しつつ、ユーモア短編の量産は才能の浪費だと警告されて、文学的な作品の創作に取り組むようになった。1887年に書いた初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』は、翌年の初演の評判こそよくなかったが、1889年の再演は好評を博した。彼は文壇の寵児となり、おどけて自らを「文壇のポチョムキン」と呼んだ。この頃トルストイの思想に傾倒し、1889年の「退屈な話」では、人生の意味を見失って不安にさいなまれる老教授の心情を描いた。1890年4月から12月には、当時流刑地だったサハリン島へ出かけ、囚人たちの過酷な生活を観察して記録し、旅行記『サハリン島』にまとめた。現地の日本人外交官とも交流し、帰途の日本渡航を計画したが、コレラの流行で断念した。1891年にはスヴォーリンと西ヨーロッパを訪れたが、のちにドレフュス事件でドレフュスを擁護したため、スヴォーリンと対立し、二人の関係は決裂した。
1892年にモスクワ郊外のメリホヴォに土地を買って移り住み、地主になったことを喜び、医師として周辺の農民の診察と治療も始めた。1895年秋に長編戯曲『かもめ』を書いたが、1896年秋の初演はロシア演劇史上に類例がないほどの失敗に終わった。しかし2年後の1898年、モスクワ芸術座による再演が大成功を収め、同座は記念して、飛翔するかもめの意匠をシンボル・マークに採用した。1897年3月に大量に喀血して倒れ、医師に勧められてヤルタで静養し、メリホヴォを離れた。ヤルタでは「犬を連れた奥さん」などを書き、モスクワ芸術座が1899年に『ワーニャ伯父さん』を、1901年に『三人姉妹』を初演した。1901年5月に、マーシャ役の女優オリガ・クニッペルと結婚した。1904年に最後の作品『桜の園』が同座で初演され、1月17日の44歳の誕生日には筆歴25年を祝う会が開かれた。1904年7月15日、バーデンワイラーで没した。
同じ年に亡くなった人物
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- チャールズ・フォスター (財務長官) (1904年没)
- カール・アルフレート・フォン・ツィッテル (1904年没)
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同じ地域に関係する人物
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- ジャック・ドリオ (1945年没)
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- ベラ・バレニー (1997年没)
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