伝記
小泉八雲は、出生名をパトリック・ラフカディオ・ハーンといい、1850年6月27日、当時イギリスの保護領だったギリシャのレフカダ島で生まれた。イギリス軍医の父チャールズ・ブッシュ・ハーンと、キシラ島出身のギリシャ人の母ローザ・カシマティの間に生まれ、「ラフカディオ」は生地の島の名にちなむミドルネームである。アイルランドに移り住んだが、1854年、精神を病んだ母がギリシャへ帰国して離婚し、ハーンはほとんど両親に会うことがなかった。父には嫌悪感を、母には生涯思慕の念を抱いたという。父方の大叔母に引き取られ、厳格なカトリックの教義で育てられた経験から、キリスト教嫌いになり、神話や伝説、民話、民間信仰といったものに興味を引かれるようになった。フランスの神学校で教育を受けてフランス語が得意になり、ダラム大学に学んだが、10代半ばに遊びの最中に左目に当たり、視力を失った。大叔母が破産したため、1867年に大学を退いた。
1869年に移民船でニューヨークへ渡り、シンシナティに行った。ホームレス同然のところを印刷屋に拾われて印刷の知識を身につけ、文才を生かして新聞記者となった。1874年に、片親が奴隷の出身だった女性マティと結婚したが、当時のオハイオ州では白人と有色人種の結婚が違法で、上司や同僚に責められ、記者の職を失った。1877年にニューオーリンズへ移り、さまざまな文化をルーツに持つ人々に分けへだてなく接した。ブードゥー教信者を取材して記事にしたり、クレオールの人々の食文化を初めて文章にして書籍化したりして、作家としての力をつけていった。『古事記』の英訳を読んで神話に惹かれ、1884年にニューオーリンズの万国博覧会で日本の展示に触れて、日本への興味を深めた。
1890年、40歳で来日した。出版社の通信員として来たが、契約を破棄し、服部一三の斡旋で島根県尋常中学校と師範学校の英語教師となり、8月30日に松江に着いた。翌年1月、住み込み女中として雇われた士族の娘セツと結婚した。ハーンは41歳、セツは23歳だった。同年11月、チェンバレンの紹介で熊本の第五高等中学校の英語教師となった。1894年に神戸の新聞社に勤め、1896年には東京帝国大学の英文学講師となった。同じ年、46歳で日本に帰化して「小泉八雲」と改名した。「八雲」は、一時期暮らした松江のある出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」にちなんで、セツの養祖父が名づけたという。三男一女をもうけた。
英語教師のかたわら、精力的に執筆を続け、『怪談』『知られぬ日本の面影』『骨董』などを著した。「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「貉」といった、日本に古くから伝わる口承の説話を記録、翻訳し、世に広めたことで評価されている。日本では『雨月物語』『今昔物語』に題材を採った古典の再話文学でも読まれる。アメリカ合衆国では、クレオール料理を文章で初めて記録した人としても知られ、ニューオーリンズのマルディグラのパレードには、毎年ハーンを記念した山車が出る。1904年9月26日に狭心症で死去し、満54歳だった。松江時代に住んだ家は、1940年に国の史跡に指定されている。
同じ年に亡くなった人物
- ノロドム (1904年没)
- ニコライ・ボブリコフ (1904年没)
- ジョージ・フレデリック・ワッツ (1904年没)
- エルンスト・ツア・リッペ=ビースターフェルト (1904年没)
- ジャムシェトジー・タタ (1904年没)