伝記
ヘンリー・モートン・スタンリーは、1841年1月28日にウェールズ北部のデンビーで、私生児のジョン・ローランズとして生まれた探検家、ジャーナリストである。アフリカの探検と、遭難したデイヴィッド・リヴィングストンを発見した人物として有名である。母エリザベス・パリーは、出産のとき18歳で、赤ん坊だった彼を捨てて連絡を絶った。両親が未婚だったため、出生証明書には私生児と記され、その烙印は、生涯にわたって彼に重くのしかかった。5歳まで祖父に育てられ、祖父が亡くなると、親戚の家を転々としたのち、15歳までセント・アサフの救貧院で育った。10歳の頃に母と兄弟が救貧院を訪れたが、ジョンは、誰か分からなかったという。
18歳の1859年に新しい生活を求めてアメリカに渡り、ニューオーリンズで商人ヘンリー・ホープ・スタンリーと親しくなり、その名をもらって、ヘンリー・モートン・スタンリーと名乗るようになった。本人は養子になったと語ったが、その説明には矛盾点が多く、実際には養子縁組はなかったという研究者もいる。南北戦争では、初めは南軍に参加し、1862年のシャイローの戦いなどに従軍した。捕虜になったのちに北軍に移ったが、重い病気のため18日で除隊した。その後、商船で働いたのち、1864年7月に海軍に入り、艦上の記録係として砦をめぐる戦闘に加わった。これが、フリーのジャーナリストになるきっかけとなった。南軍、北軍、北軍海軍のすべてに従軍した、おそらく唯一の人物である。
1867年、インディアン和平委員会のタッパン大佐に誘われて、複数紙の海外特派員となった。すぐにジェームズ・ゴードン・ベネット・シニアに気に入られ、『ニューヨーク・ヘラルド』の専属となり、イギリス軍のアビシニア遠征の従軍記者を務めた。1869年に、リヴィングストンの捜索に加わるよう要請された。1870年10月にボンベイを発ち、翌年3月にザンジバルに着き、200人以上のポーターを雇った。馬はツェツェバエに咬まれて2、3日で死に、ポーターも熱帯病で多くが倒れた。探検を続けるため、従者を鞭打ったと伝えられる。そして内陸へ向かい、11月10日にタンガニーカ湖畔のウジジでリヴィングストンを発見した。そのとき発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、イギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句になるほど有名な言葉となった。1872年7月にイギリスに戻り、手記を公表すると、私人として最大級の歓迎を受けた。1873年には、王立地理学会から金メダルを贈られた。
1874年、ヘラルド紙と『デイリー・テレグラフ』の共同出資で、ビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断し、コンゴ川の流路を確認した。999日後の1877年8月9日、コンゴ川河口に到着したが、356人で出発して、生き残ったのは114人にすぎず、欧米人は彼だけだった。1876年には、ベルギー王レオポルド2世の私的団体の依頼で、「文明化をもたらす」という口実で派遣され、現地の首長たちと条約を交わした。しかし建設した道路は奴隷貿易に利用され、王の野望が露見しても彼は任務にとどまったため、後半生は、冒険が暴力と残虐に満ちていたという批判への反論に、多くの時間を費やした。1889年には、ルウェンゾリ山地を最初に目撃したヨーロッパ人となった。1890年に画家のドロシー・テナントと結婚した。英国の市民権を得て議会のために働いたが、1904年5月10日に亡くなった際、コンゴ自由国の件を理由に、ウェストミンスター寺院への埋葬を拒否された。
同じ年に亡くなった人物
- カール・モーリッツ・シューマン (1904年没)
- ヴィルヘルム・ヒス (1831年生) (1904年没)
- ウィリアム・レンショー (1904年没)
- ウラジーミル・マルコフニコフ (1904年没)
- ニコライ・ミハイロフスキー (1904年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・イネス (1933年没)
- アーサー・ヘイ (第9代ツィードデール侯爵) (1878年没)
- アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵) (1928年没)
- コンスタンス・ロイド (1898年没)
- Clementina Maude, Viscountess Hawarden (1865年没)