HISTORICAL PERSON · 1904年没

ヨーカイ・モール

ハンガリーの作家・政治家。1848年の革命では、ペテーフィとともに「十二か条の要求」の起草に深く関わり、独立革命運動の指導的立場に就いた。

生涯
1904年没
死亡地
ハンガリー(ブダペスト)
出生地
スロバキア共和国(コマールノ)
出典
世界地図
ハンガリー(ブダペスト)

伝記

ヨーカイ・モールは、1825年2月18日に生まれ、1904年5月5日に没したハンガリーの作家、革命家、政治家である。ハンガリー自由党に所属し、日本語ではモーラス・ヨーカイとも表記される。1848年のハンガリー革命の勃発をペシュトで率いた一人であり、ロマン的な小説は広く人気を博した。

オーストリア帝国ハンガリー王国のコマーロム(現スロバキアのコマールノ)で、貴族出身の弁護士ヨージェフと、同じく貴族出身のマーリアの子として生まれた。カルヴァン派である。少年の頃は内気で病弱だったため、10歳ごろまで自宅で教育を受け、のちポジョニ(現ブラチスラヴァ)に送られた。パーパにあるカルヴァン派の学院で学び、在学中にペテーフィ・シャーンドルと意気投合して、生涯にわたる親交を結んだ。12歳のとき父が亡くなり、家族は父のような法律家になることを望んだため、ケチケメートなどで法学を修めて、弁護士事務所に勤めた。しかし弁護士の仕事に退屈し、最初の戯曲がハンガリー科学アカデミーに称賛されたことに励まされ、1845年にペシュトへ移った。ペテーフィの紹介で文学界に入り、1846年に処女作を発表して、広く批評家の称賛を受けた。翌年には当時の代表的な文芸誌の編集者に任命され、周囲に若い作家の輪を集めた。

1848年にフランスの2月革命が起こり、同年3月にコシュート・ラヨシュが演説を行うと、ヨーカイは「十二か条の要求」の起草にペテーフィとともに深く関わり、3月15日にペシュトで市民のデモ行進が始まった日の夜に、ペテーフィらとともにそれを口頭で発表した。穏健派だった彼は、急進派に否定的で、ペテーフィと仲違いすることもあった。この頃、女優ラボールファルヴィ・ローザと出会い、多くの反対を押しきって婚約した。1849年4月14日にコシュートがハンガリーの独立を宣言すると、熱狂的に支持した。しかし同年7月、ロシア軍の前に革命軍は決定的な大敗を喫し、兵士として出征した親友ペテーフィは戦地で消息を絶った。8月13日、軍はヴィラーゴスでロシア軍に全面降伏し、革命は幕を閉じた。ヨーカイはその場に居合わせて、投獄を恐れて自殺しようとしたが、妻に助けられて徒歩でロシア軍の戦線をくぐり抜け、ペシュトへ逃れたという。その後、各地を転々とし、北部の山奥で長く隠れ家に籠もった。のちにオーストリア政府が恩赦を発布した。

以後14年間、政権に疑われながら、ハンガリー語の復興に尽くし、30の小説と多くの物語、評論を書いた。1852年の『カールパーティ・ゾルターン』『ハンガリーのトルコ世』『海賊王』などがこの時期の作品である。『黄金の人』『石の心臓の人の息子たち』『海の目をした女』などは、比較的よく知られる。多作で、作品はユーモアにあふれ、異国情緒を帯び、ユゴーに感化された。1867年のアウスグライヒでハンガリー王国の議会に強い権限が与えられると、政治に積極的に加わり、ティサ・カールマーン内閣を長く支持して、20年以上議員を務めた。1886年に妻が死去し、のち1899年に20歳の女優ナギー・ベーラと婚約して、国中の醜聞となった。1904年にブダペストで死去し、ケレペシ墓地に埋葬された。

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