HISTORICAL PERSON · 1904年没

アントニン・ドヴォルザーク

チェコ国民楽派を代表する作曲家。ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で人気を得た。アメリカで音楽院院長を務めて音楽教育に貢献し、代表作に交響曲第9番『新世界より』やチェロ協奏曲がある。

生涯
1904年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ / ニュータウン)
出生地
チェコ共和国(ネラホゼヴェス)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

アントニン・レオポルト・ドヴォルザークは、1841年9月8日に、プラハの北約30キロにある北ボヘミアのネラホゼヴェスに生まれた、後期ロマン派に位置するチェコの作曲家である。チェコ国民楽派を代表し、スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。生家は肉屋と宿屋を営み、父はツィターの名手として村で評判で、簡単な舞曲を作って演奏することもあった。近所の町で肉屋を営む伯父も、トランペットの名手として知られた。6歳で小学校に通い始め、校長のシュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると、見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となった。しかし、父は長男の彼に肉屋を継がせるつもりで、小学校を中退させ、母方の伯父が住む町へ肉屋の修業に行かせた。ところが、その町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていたリーマンが、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行う典型的なカントルであり、彼にヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏と、和声学など音楽理論の基礎を教えた。

1855年に両親はネラホゼヴェスを引き払い、ズロニツェで飲食店を始めた。翌年からは、フランツ・ハンケにドイツ語と音楽を学んだが、実家の経済状況が悪化し、両親は彼を帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。これにリーマンと伯父が反対し、伯父が経済的負担を負う約束で、1857年にプラハのオルガン学校に入学した。苦しい学生生活だったが、3歳年上の裕福な友人ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、1859年に12人中2位で卒業した。評価は、実践的な才能に長けるが理論に弱い、というものだった。卒業後はヴィオラ奏者として楽団に入り、ホテルやレストランで演奏した。1862年にチェコ人による国民劇場の建設が決まり、完成までの仮劇場のオーケストラに加わった。1866年にスメタナが指揮者に迎えられ、その教えを直接受ける機会を得た。

1865年からは、仕事の合間に金属細工商チェルマーク家の姉妹の音楽教師となった。女優でもあった姉ヨゼフィーナに恋をして失恋し、この想いは歌曲集『糸杉』をはじめ様々な作品に昇華された。最初の交響曲は1865年にコンクール用に書かれたが、生前には演奏されなかった。1870年の最初のオペラ『アルフレート』には、ワーグナーの影響が強く表れ、1871年にはプラハ初演の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に刺激されて歌劇を書いた。スメタナは、これを「まさに天才の理念に満ちた」作品と評しながら、上演されるとは思わないと予言し、その言葉どおり、4週間のリハーサルの末に放棄された。

1871年に作曲に時間を充てるため、オーケストラを辞して個人レッスンで生計を立てた。翌年から取りかかった賛歌『白山の後継者たち』が最初の出世作となり、1873年3月9日、ベンドルの指揮で初演され、民族主義の高まりもあって成功した。この初演で、かつて教えた姉妹のうち妹と再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会のオルガニストに就任した。のちにブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となり、アメリカに渡って音楽院院長を務めて、交響曲第9番『新世界より』などを作った。1904年5月1日に没した。

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