伝記
ヨハネス・ドゥーカスは、ビザンツ皇帝コンスタンティノス10世の兄で、カエサルの称号を持った貴族である。父アンドロニコスはパフラゴニア出身の貴族で、ブルガリアの軍管区の長官を務めた可能性がある。ヨハネスは将軍として経歴を始め、のちには宮廷で大きな影響力を持った。トラキアとビテュニアの所領から富を得ており、歴史家ミカエル・プセルロスと親しかった。弟の助言者、支持者として仕え、弟からカエサルの宮廷称号を授けられた。皇帝コンスタンティノス7世の『帝国統治論』について、現存する最古の写本を所有していたことでも知られる。この写本はヨハネス配下の写字生が書き写したものであった。
1067年に弟が死ぬと、甥ミカエル7世の権利を守る立場で政治の表面に現れた。一族は元老院にも勢力を持ち、ヨハネスは皇太后エウドキア・マクレンボリティッサとロマノス4世ディオゲネスの結婚に反対する宮廷官人の中心となった。ロマノスの治世には敵対を深めたが、陰謀のために大半の時期をビテュニアの所領で過ごした。1071年、マンズィケルトの戦いに至る遠征へ参加した息子アンドロニコスが皇帝を見捨てたと知ったのも、この地であった。ロマノスが捕虜になると、エウドキアの求めで宮廷へ戻った。プセルロスと組んで皇太后に息子との共同統治を認めさせ、同年10月には修道女として引退させた。
ミカエル7世の名のもとで実権を握ると、ロマノスの帝位を認めないよう命じた。かつての即位は幼いミカエルに代わる措置であり、今やその必要はないという立場であった。捕虜から解放されたロマノスを捕らえるため、息子アンドロニコスとコンスタンティノスを派遣した。当初は退位して修道院へ入ることを許したが、約束を覆して失明させるよう命じた。ロマノスが傷の感染で死に向かうなか、嘲りの言葉を送ったともいう。こうして甥の単独支配を確保し、プセルロスとともに宮廷を動かした。しかし、自分が引き立てた宦官ニケフォリツェスが1073年までに皇帝の信任を得て、叔父への反感を植えつけた。ヨハネスは再び所領へ退き、ボスポラス海峡近くの森で狩猟を楽しんだ。
1074年、アナトリアで反乱したルーセル・ド・バイユールのノルマン人傭兵を討つため、甥から軍の指揮を命じられた。ドリュライオンに本営を置いたが、ゾンポス川の橋付近でフランク人傭兵の裏切りと予備軍の退却に遭い、息子アンドロニコスとともに捕らえられた。救援に向かった次男コンスタンティノスの部隊も、指揮官の急死で崩れた。ルーセルは自分が仕える皇帝として捕虜のヨハネスを擁立し、両者はコンスタンティノープルへ進んだ。ミカエル7世とニケフォリツェスはセルジューク勢力のスライマーンと協定を結び、支援軍を得た。協定では、セルジューク側がすでに占領していた諸州の統治権をスライマーンに認め、その代わりに皇帝側のために戦う軍を送ることが定められた。この軍にソフォン山の陣営を急襲され、ルーセルは逃れたが、ヨハネスは再び捕虜となった。のちに甥が身代金を払い、解放を受けた。ヨハネスの孫娘エイレーネー・ドゥーカイナは、皇帝アレクシオス1世コムネノスの妻となった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘルマン・フォン・ザルム (1088年没)
- トゥールのベレンガリウス (1088年没)
- アブー・バクル・イブン・ウマル (1088年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。