伝記
アブー・バクル・イブン・ウマルは、ベルベル人のラムトゥーナ族を率い、1056年からムラービト朝のアミールを務めた軍事指導者である。同族のバヌー・トゥルグト氏族の出身で、叔父ヤフヤー・イブン・イブラーヒームは、法学者アブドゥッラー・イブン・ヤーシーンとともに1040年代初めのムラービト運動を起こした。1056年春、タブファリーラの戦いでヤフヤー・イブン・ウマルが死ぬと、宗教指導者イブン・ヤーシーンによって新たな軍司令官兼アミールに任命された。同年末には、ゼナータ系マグラーワ族の手に戻っていたシジルマーサを再征服した。さらにこの町への交通路を確保するため、モロッコ南部の河谷へ進出した。
ドラー渓谷を押さえ、ヌール川沿いを進んだ軍には、サンハージャ系のラムタ族やガズーラ族が加わった。1057年にはスース渓谷の中心タルーダントを攻略した。イブン・ヤーシーンが高アトラスのマスムーダ族と結んだ同盟によって山越えが容易になり、1058年にはゼナータ側の拠点アグマートも大きな抵抗なく占領した。しかしイブン・ヤーシーンは、わずかな供回りで西部のバルガワータの地に入り殺された。アブー・バクルは軍を転じて報復の遠征を行い、この勢力を征服した。宗教指導者の死後は運動全体を指揮したが、自ら宗教的権威を称することはせず、カリフの称号とは異なる「ムスリムの君主」という地位を用いた。
アグマートで最も富裕な女性ザイナブ・アンナフザーウィーヤと結婚し、南部の複雑な政治を扱ううえで助力を受けた。砂漠の戦士であった彼は、人の多いアグマートの宮廷生活にはなじめなかった。1060年ないし1061年には、配下のサンハージャ族の指導者とともにアグマートを出て、テンシフト川沿いの草地に天幕を張り、本営を置いた。この野営地ではのちに石造建築が天幕に代わり、マラケシュの町となった。ヤシが植えられ、砂漠の生活を思わせるオアシスのような町であった。アグマートと北方のゼナータ族に対する戦線は従兄弟ユースフ・イブン・ターシュフィーンに任せた。1060年代、アブー・バクルがマラケシュに拠点を置く間に、ユースフは北部の要塞を次々と攻略し、1070年にはフェズを陥落させた。一方、サハラの部族には北方遠征を費用のかかる無益な事業とする不満が広がり、連合を離れたグッダーラ族が他の部族にも離脱を呼びかけていた。
フェズ攻略後、アブー・バクルは砂漠の不和を鎮めるため帰還し、モロッコをユースフに委ねた。出発前には長期遠征に際する慣習に従ってザイナブと離婚し、保護が必要ならユースフと結婚するよう勧めた。不満を鎮めて1072年に北へ戻ったが、ザイナブを妻としたユースフは統治権を手放そうとしなかった。両者はマラケシュとアグマートの間で会い、アブー・バクルは金や家畜などの贈り物を受けて北部の支配を譲った。ただし貨幣にはその死まで名前が残された。その後はムラービト勢力の南部を指揮し、サハラ以南へ出兵した。ガーナ王国を攻めた可能性もあるが、ムラービト朝が同地を支配したかは定かでない。1087年11月、現在のモーリタニアにあたる地域で毒矢を受けて死んだとされる。
同じ年に亡くなった人物
- トゥールのベレンガリウス (1088年没)
- ヨハネス・ドゥーカス (1088年没)
- ヘルマン・フォン・ザルム (1088年没)
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