HISTORICAL PERSON · 252年没

潘淑

呉の孫権の皇后で、孫亮の母。罪人の娘として織室に送られたが、美貌を見初められて後宮に入り、251年に皇后となった。翌年に突然死したが、後に宮女による縊殺と露呈し、民間では石榴の花の神とされる。

生涯
252年没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 南京市)
出生地
中華人民共和国(寧波市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

潘淑は、三国時代の呉の初代皇帝孫権の皇后である。揚州会稽郡句章県(現在の浙江省寧波市)の出身で、呉の第2代皇帝孫亮の母にあたる。父母の名は伝わらず、「淑」という名は『建康実録』に見える。孫権には何人もの妻がいたが、皇后に立てられたのは潘淑ただ一人であり、奴婢の身分から皇后に上った中国史でも珍しい例とされる。

下級役人の次女として生まれたが、父が法を犯して処刑され、姉とともに連座して奴婢とされ、織室に送られた。非常な美貌の持ち主で、「江東の絶色」と称された。織室の人々は彼女を「神女」と呼んで敬遠したといい、この噂を聞いた孫権が絵師に似顔絵を描かせたところ、憂いを帯びた表情にもかかわらず、その美しさに心を動かされて「この子は確かに神女だ」と言ったと『拾遺記』は伝える。孫権は織室から召し出して後宮に入れ、寵愛した。おしとやかで哀愁漂う美人だったといわれる一方、嫉妬心が強く、帝の歓心を得るのが巧みで、袁夫人らを中傷し続けたともされる。

赤烏5年(242年)、王夫人と、その子で皇太子となった孫和の地位が定まると、孫権は多くの妃を後宮から退かせたが、潘淑は後宮にとどまり、行幸にも伴われた。この頃の逸話として、孫権と昭宣台に遊んだ潘淑が、喜びのあまり大いに酒を飲み、ルビーの指輪をザクロの枝に掛けたため、そこに環榴台という高楼が建てられたという。「環榴」が「還劉」に音が近く不吉とされて、のちに榴環台と改められた。また孫権と釣りをした際、潘淑は「今日は本当に嬉しいですが、これから悩む日が来るのではないでしょうか」と述べたとされ、孫権の晩年に誹謗中傷で追い払われる人が増えたことが、その予言のようだと受け取られた。

懐妊した潘淑は竜の頭を授かる夢を見たといい、赤烏7年(244年)、内殿で孫亮を産んだ(243年とする説もある)。母子ともに愛され、孫権は臣下の反対を押し切って、赤烏13年(250年)11月に孫亮を皇太子とした。孫和と孫覇の後継争いのあとのことである。太元元年(251年)5月、潘淑は皇后に立てられた。孫権は妃妾を皇后にしない意向だったといわれ、先に皇太子となった孫和の母の王夫人も皇后にはなれなかったが、潘淑の立后を祝って太元と改元し、大赦を行った。姉と親しく、立太子の際には姉を解放して嫁がせたいと願い出て、孫権に許されたという。

神鳳元年(252年)、重い病となった孫権を看病して疲れ果て、自らも病に倒れ、2月に内宮で急死した。昏睡のうちに宮女たちに縊り殺され、急病とされたが、のちに事が露見し、関与した6、7人が処刑された。動機には諸説があり、看病の負担を嫌った宮女の仕業とする説や、潘淑が宮女を虐待したためとする説があるが、後者は誤読だと指摘する注釈者もおり、呉の重臣が、皇太后として実権を握ることを恐れて関与したと考える見方もある。孫権の病中、潘淑は前漢の呂后が高祖の死後に政治を執った経緯を、孫弘に尋ねさせたという。没後には、将軍や官吏が王表のもとを訪れて福を請うこともあったという。死の2か月後に孫権も崩御し、蔣陵に合葬された。後世、潘淑は『百美新詠図伝』で中国歴代の名高い美人百人に選ばれ、民間では神格化されて石榴の花の神として祀られた。南京の秦淮河南岸には、孫権と潘淑が釣りをした場所に由来するとされる地名が残る。江西省吉安市で1991年に見つかった墓は、潘淑の義兄譚紹の墓とされ、120点以上の文物が出土した。

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