伝記
イスレイヴル・ギスラルソンは1006年ごろに生まれた、アイスランド最初の司教である。父は白きギスルと呼ばれた地方首長ギスル・テイツソン、母はその3番目の妻ソールディス・ソーロッズドッティルであった。父は同国で早い時期にキリスト教へ改宗した一人で、999年の全島集会アルシングにおける改宗にも重要な役割を果たした。イスレイヴルは父によってドイツのヴェストファーレンにあるヘルフォルト修道院の学校へ送られ、女子修道院長ゴデスティのもとで学んだ。国外で宗教教育を受け、司祭に叙階された最初のアイスランド人とされる。
帰国すると父の農場があるスカルホルトに住み、父に続いて地方首長の地位を担った。ダッラ・ソルヴァルズドッティルと結婚し、ギスル、テイト、ソルヴァルドの3人の息子をもうけた。1055年、アルシングで司教に選ばれた。これは本人の資質が認められたと同時に、外国から来る宣教師とは異なり、現地の言葉と慣習を知る司教を求める人々の希望にも応える選出であった。翌年、聖別を受けるため国外へ赴いた。まず皇帝ハインリヒ3世を訪ねてホッキョクグマを贈り、ローマへ進んで教皇に会った。その後ブレーメンへ滞在し、ハンブルク・ブレーメン大司教アーダルベルトから司教の聖別を受けた。冬はノルウェーで過ごした。
スカルホルトへ戻ると、一族の所有地を司教職の拠点とした。ただし制度の整った司教座が既に存在したわけではなく、宣教司教に近い形で活動したとも考えられる。民衆から王のように扱われたともいわれるが、実際の司牧には多くの難題があった。信仰の薄さや不服従、窃盗、武力による紛争に加え、法の宣言者が母と娘の双方を妻にするなど、教会が受け入れない行為も起きていた。また、より規律の緩い東方の教会などから来た宣教司教との競合にも直面した。最終的にはブレーメン大司教が、そうした司教に宗教上の奉仕を求めることをアイスランド人に禁じた。財政面でも困難を抱え、生前はまだ十分の一税による支えも得られなかった。
教養を備えた司祭を育てるため、スカルホルトに学校を設け、多くの首長が子を送った。イスレイヴルは司教として24年間務め、1080年7月5日にスカルホルトで没した。司教職は息子ギスルが継いだ。十分の一税の導入は、イスレイヴル死後の1096年であった。学校で学んだ者にはコル・ソルケルソンとヨーン・オグムンダルソンがおり、コルはヴィークの司教、ヨーンは同国第2の司教座ホーラルの初代司教となり、自らも学校を設立した。別の息子テイトはハウカダルに学校を開き、歴史家アリ・ソルギルソンを教え、『アイスランド人の書』に知識を提供した一人となった。イスレイヴルと後継者たちによる教育は、アイスランドとヨーロッパの文化の交流を進め、同国の文学活動にも結び付いた。
同じ年に亡くなった人物
- カトラーン・タブリーズィー (1080年(推定))
- エルベール4世 (ヴェルマンドワ伯) (1080年没)
- ボレスワフ2世 (ポーランド王) (1080年代没)
- ミカエル・アタラレイアテス (1080年没)
- ブロット=スヴェン (1080年代没)
同じ地域に関係する人物
- ブリニョウルヴル・スヴェインソン (1675年没)
- ビャルニ・ベネディクトソン (1908年生の政治家) (1970年没)