伝記
ボレスワフ2世は1042年ごろ、ポーランド公カジミェシュ1世と、キエフ出身のマリアの長男として生まれた。母はキエフ大公ウラジーミルの娘である。父が亡命から帰還し、内乱やボヘミアの侵入で揺らいだピャスト家の権力を立て直していた時期に育った。1058年に父が死去すると、大ポーランド、小ポーランド、マゾフシェ、ポメレリア、シロンスクなどを継承した。弟ヴワディスワフ・ヘルマンやミェシュコも各地の統治にあたった。ボレスワフは西方の神聖ローマ帝国に対抗するため、周辺に友好国を築こうとし、ハンガリー、ボヘミア、キエフの政治へ繰り返し介入した。
1060年から1063年にかけては、ハンガリーの王位継承争いでベーラ1世を援助した。相手のシャラモンはドイツ王ハインリヒ4世の支援を受けており、ボレスワフは反皇帝派との協力を進めたのである。この方針は、皇帝と結ぶボヘミア公ヴラチスラフ2世との対立にもつながった。ボレスワフはシロンスクをめぐる年々の貢納を拒み、ボヘミア貴族に反乱を促した。1063年にはモラヴィアのフラデツを包囲したが攻略できず、撤退した。同年にベーラが死ぬと、その子ゲーザを、シャラモンを擁立するドイツ軍から守ることもできなかった。1065年に弟ミェシュコが死去すると、その領地はボレスワフの支配下に入った。ヴラチスラフとの関係は、ボレスワフの妹シフィエントスワヴァがボヘミア公と結婚したことで、ある程度調整された。
1069年、キエフ大公イジャスラフ1世と、その妻でボレスワフの叔母にあたるゲルトルダが追放されると、ポーランド軍を率いて復位を助けた。1071年には再びボヘミアへ攻め込み、ハインリヒ4世の仲裁を拒んだ。いったん休戦となったが、翌1072年には攻撃を再開し、シロンスクに関する貢納にも応じなかった。ハインリヒはポーランド遠征を準備したものの、1073年にザクセンの反乱が起き、実行を妨げられた。一方、こうした南方や東方への介入の間に、バルト海沿岸に対する支配は弱まり、グダニスクを中心とするポメレリアがポーランドとの結びつきを断っていた。
国内では教会や修道院の整備を進めた。1075年にはグニェズノ大司教座を再設置し、プウォツク司教区を設けた。モギルノ、ルビン、ヴロツワフにはベネディクト会の修道院を建てた。また、クラクフとヴロツワフに貨幣鋳造の拠点を置き、大量に流通していた外国貨幣を置き換えられるほど自国の貨幣を鋳造した。貨幣制度の改革は王の収入にもなった。多くの教会や修道院を建てたことから、治世中には「寛大な者」と呼ばれたとされる。「大胆王」という呼称は、後に用いられるようになった。1076年には公から王となったが、1079年、対立するクラクフ司教スタニスワフを、ミサの最中に捕らえて殺害した。この事件を契機に国を追われ、妻子を伴ってハンガリーへ亡命した。1081年または1082年に死去したとされ、埋葬地は明らかでない。弟ヴワディスワフが継承したが、称号は王ではなく公であった。ポーランドの王位が復活したのは、1295年にプシェミスウ2世が即位したときである。
同じ年に亡くなった人物
- アーダルベルト2世 (バレンシュテット伯) (1080年)
- アメデーオ2世・ディ・サヴォイア (1080年没)
- ルドルフ・フォン・ラインフェルデン (1080年没)
- イースレイヴ・ギツラルソン (1080年没)
- ブレーメンのアダム (1080年代没)
同じ地域に関係する人物
- オディロ・グロボクニク (1945年没)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1738-1789) (1789年没)
- イェルク・ハイダー (2008年没)
- ハインリヒ・ハラー (2006年没)
- Karl Robatsch (2000年没)