HISTORICAL PERSON · 1080年没

ミカエル・アタラレイアテス

11世紀のビザンツの年代記者・法官・歴史家。アッタレイア出身で、司法の職に就いて高位を得た。1072年に法律要約を編み、1034〜79年を扱う『歴史』をニケフォロス3世に捧げ、貧民院と修道院も設けた。

生涯
1080年没
死亡地
—
出生地
トルコ共和国(アンタルヤ県 / アンタルヤ)
出典
世界地図
トルコ共和国(アンタルヤ県)

伝記

ミカエル・アタレイアテスは、11世紀後半の東ローマ帝国で活動した裁判官、官僚、歴史家である。アタレイアの出身とみられ、1030年ごろから1040年ごろの間に、法律を学ぶためコンスタンティノポリスへ移った。長年の司法勤務を通じて私財を築き、裁判官として名を上げたことで複数の皇帝の目に留まり、パトリキオスやアンテュパトスといった、文官が授けられる称号の中でも特に高い位に位置する称号を受けた。同時代の歴史家ミカエル・プセルロスより若く、その弟子であった可能性もある。また、ヨハネス・スキュリツェスよりは年長の同僚であったと考えられている。首都だけでなく、帝国の地方でも職務に携わった。

1072年には皇帝ミカエル7世のために、9世紀末の法典『バシリカ』に基づく法律の要綱『ポネマ・ノミコン』を編纂した。1070年代半ばにはコンスタンティノポリスで救貧施設と修道院を創設し、その運営を定める『ディアタクシス』を作成した。そこには修道院の蔵書目録も含まれ、設立者の首都とトラキアにおける財産についても詳しく記された。アタレイアテスはコンスタンティノポリス、ライデストス、セリュンブリアに、農地と都市の不動産を多数所有していた。

1079年ごろから1080年ごろには、1034年から1079年までの政治と軍事を扱う『歴史』を世に出した。マケドニア朝が終わった後の帝国の衰勢を描き、同時代の政治問題を論じた著作で、プセルロスとはしばしば異なる見方を示した。全編は皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスに献呈され、末尾には長い皇帝賛歌が置かれた。このため、アタレイアテスは長くこの老皇帝を誠実に支持した人物とみなされてきた。ただし、その賛辞を額面どおりには受け取れないとする解釈もある。むしろ若い軍司令官アレクシオス・コムネノスに好意を寄せ、帝国を救いうる人物として描いたとみられる。

『歴史』では軍事上の衰退を説明する際、古代ローマ共和政の栄光と、当代の指導者の失策とを対比した。共和政の英雄に見いだした市民的な徳を通じ、危機から帝国を立て直す愛国心を求めたのである。これは過去の知識を披露するためだけの叙述ではなく、現在の政治への関心と結び付いていた。また、冒頭から出来事の原因を探る方針を掲げ、個々の事件について可能な限り分析を加え、人間の行動に注意を向けた。政務を担う官僚として同時代の統治の失敗を批判し、歴史を書くことで当面する問題を考察した。

アタレイアテスは、コムネノス朝が始まる直前の1080年ごろに死去したとされる。そのため、皇帝となるアレクシオス1世に著作を改めて献呈する機会はなかった。息子テオドロスは父より長く生きたが、1085年より前に没した。父子の遺体は、アタレイアテスの2人の妻エイレーネとソフィアの遺体と共に、コンスタンティノポリス南西部の聖ゲオルギオス教会の敷地に葬られた。この周辺には家族の所領が集まっていたとみられ、一家が保護したキリストス・パノイクティルモン修道院も近くにあった。

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