伝記
トラシュブロスは、紀元前5世紀後半から前388年にかけて活躍したアテナイの将軍で、民主政を支持した指導者である。スパルタに押しつけられた寡頭政の三十人僭主と戦い、民主政を回復させた人物として知られる。旅行家パウサニアスは『ギリシア案内記』で、彼をアテナイの名士のなかで最も優れた人物と評している。
生い立ちはほとんどわかっていない。父はリュコスといい、スティリア区の出身であった。生年は前455年から前441年のあいだとされ、三段櫂船の費用を負担する役を何度も務め、のちには息子が10タラントンという多額の罰金を払えたことから、裕福な家の出と考えられている。前411年までには親民主政の政治家として評判を得ており、ペリクレスの民主政を強く支持し、アテナイの帝国主義と拡張を唱えた。デモステネスは彼を「偉大で卓越した弁論家」の一人に数え、プルタルコスは「アテナイ人のなかで最も大きな声」の持ち主だったと記す。将軍コノンは彼を「思慮に大胆な人」と評した。
前413年にシチリアで大遠征軍が壊滅すると、アテナイは危機に陥り、貴族たちは民主政の転覆を企てた。前411年に寡頭政の四百人政権が成立したが、サモスでは企てが露見した。サモスの民主派は、将軍のレオンとディオメドン、トラシュブロス、そして当時は重装歩兵だったトラシュッロスに知らせ、彼らと兵士たちの支持を得て陰謀者を破った。サモスの軍は将軍たちを解任し、民主政に固いとされる者を新たに選び、トラシュブロスとトラシュッロスもその中にいた。軍は、自分たちが都に背いたのではなく都が自分たちに背いたのだと唱え、民主政を守りつつスパルタとの戦争を続ける決議をした。彼が最初に行ったことの一つは、クーデター以前から支持していた、アルキビアデスの召還の実現であった。前411年と前410年には、アルキビアデスらとともにいくつかの重要な海戦の勝利で指揮をとった。
ペロポネソス戦争でアテナイが敗れ、親スパルタの三十人政権が成立すると、トラシュブロスはテーバイに亡命した。三十人政権の恐怖政治のもと、貴族や富裕層、敵対する者が粛清され、在留外国人のメトイコイも財産を没収され、処刑された。批判が高まると、トラシュブロスは民主派の指導者として内戦を起こした。前404年、亡命者の小部隊を率いてアッティカに侵入し、北部のフュレーの要塞を占拠してスパルタの守備隊を破り、寡頭派の討伐軍を撃退した。味方を増やしてペイライエウスのムニキアへ進み、勝利を重ねたが、スパルタ軍が寡頭派の支援に着くと苦戦した。彼はメトイコイや奴隷に支援を呼びかけ、市民と同等の税負担の特権(イソテレイア)を与えると約束した。内戦はスパルタ王パウサニアスの調停で終わり、アテナイは民主政に戻った。
トラシュブロスは大赦を与えて和解を進め、前401年にはエレウシスに逃れていた三十人政権とも和解した。内戦に加わった非市民には、フュレー占拠からの参加者に市民権、ムニキアの戦いからの参加者とそれ以後の参加者にイソテレイアを与える提案をし、実現させた。ペイライエウスから帰った民主派の全参加者に市民権を認めようとしたが、実現しなかった。民主政の復活後はアテナイの再建に尽くし、コリントス戦争で再びスパルタと戦って。前390年か389年にはオドリュサイ王アマドコスとセウテスを和解させ、同盟を更新している。最期は、レスボス島で戦死したとも、艦隊を率いてロドスへ向かう途中、アスペンドスで兵士が地元の農民に働いた乱暴を理由に、夜間に現地の人々に殺されたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
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