HISTORICAL PERSON · 1075年没

アンナ・ヤロスラヴナ

キーウ大公ヤロスラウ1世の娘で、フランス王アンリ1世の王妃。フランス初の女性摂政を務め、サンリスに修道院を設立した。

生涯
1075年没
死亡地
—
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

アンナ・ヤロスラヴナは、フランス王アンリ1世の2番目の王妃で、夫の死後は幼い息子フィリップ1世の摂政も務めた。キエフ大公ヤロスラフ1世(賢公)と、その後妻であるスウェーデン王女インゲゲルドの間に生まれた。生年ははっきりせず、歴史家デロルムは1027年、グレゴロヴィチはキエフの年代記を引いて1032年を提案しており、1024年から1032年までの幅で語られる。兄弟姉妹の中での出生順は不明だが、末娘ではないとされる。

ヤロスラフ1世は国内に学校を設けて家族に教養を身につけさせ、アンナも読み書きを学んだと考えられている。彼女がキリル文字で自分の名を書いた署名が残っているからである。グレゴロヴィチは、フランス王室に嫁ぐ準備としてフランス語を学んだのだろうと述べる。スウェーデン語、古ルーシ語、ラテン語、ギリシア語、古フランス語を話したともいわれる。

アンリ1世は、先妃マティルデ・ド・フリーズを、その子とともに亡くしたあと、世継ぎが急がれた。教会が近親婚を禁じる傾向を強めていたため、血縁のない妃を探す必要があり、ヤロスラフが娘たちを西欧の王室に嫁がせて東ローマの影響を避けようとしていたことから、キエフに白羽の矢が立った。1049年秋から1050年春にかけて、モーの司教ゴーティエやショーニーのゴスランらが使節として派遣された。交渉や持参金の記録は残っていないが、アンナは豪華な贈り物とともにキエフを発ち、1050年の夏か秋にクラクフ、プラハ、レーゲンスブルクなどを経て、フランスへ向かった。グレゴロヴィチは、その財産の一部にはサン=ドニの聖遺物箱を飾った宝石が含まれていたとする。フランスに着いた当初、フランス語は話せなかったが、道中で学んでパリに着くころには流暢だったとされる。一方、家々は陰気で教会は醜く、習慣は不愉快だと父に手紙で訴えたとも伝えられる。1051年5月19日、聖霊降臨祭の日に、約20歳年上のアンリと結婚し、ランス大聖堂で戴冠して、同大聖堂で戴冠式を行ったフランス初の王妃となった。

9年間の結婚で、フィリップ、ロベール、ユーグの3人の息子をもうけた。ギリシア風の名「フィリップ」を長男に付け、西欧の王室に広めたともいわれる。娘エマ(福者エディグナと同一視される)がいたとも伝えられるが、確かではない。1058年の憲章では、アンナと子らの承認を得て、サン=モール=デ=フォッセ修道院に特権が与えられている。1059年に、教皇ニコラウス2世から、公正な統治と夫への助言を求める手紙が送られた。これを、彼女が東方正教会からカトリックへ改宗した証拠とみなす歴史家もいる。

1060年8月4日にアンリが没し、7歳のフィリップ1世が即位した。フランドル伯ボードゥアン5世が後見人となり、アンナも政治に積極的に関わったとみられる。1060年の文書ではフィリップに次いで名が挙がり、多くの文書にボードゥアンの4倍の頻度で名前が出る。キリル文字で「アナ・レイナ(女王アンナ)」と署名した文書は、彼女の唯一の署名として残っている。1062年ごろ、ヴァロワ伯ラウル4世と再婚したが、ラウルには前妻があり、血縁もあったため、教皇アレクサンデル2世に破門された。アンナは宮廷を離れ、1074年にラウルが没するまで共に暮らしたが、息子フィリップは母を許して宮廷に迎えた。1075年9月5日に没し、セルニーの修道院に葬られたとされ、命日には、彼女が建てたサンリスのサン・ヴァンサン修道院で毎年追悼が行われる。

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