伝記
カーヴルト・ベグは、セルジューク家の王族で、イラン南部にケルマーン・セルジューク朝を開いた君主である。セルジューク朝の始祖トゥグリル・ベグの兄チャグリー・ベクの長男で、アルプ・アルスラーンの兄にあたる。父チャグリーは一族の祖セルジュークの孫であった。トゥグリルは征服地を一族に分け与え、統治を委ねるとともに隣接地の征服も命じた。チャグリーはメルヴとホラーサーンを拠点とし、カーヴルトはナハーヴァンドとケルマーンを選んだ。ケルマーンを支配していたブワイフ朝は、継承争いや外からの圧力によって衰え、各地への支配を維持しにくくなっていた。
カーヴルトは伯父の命令でオグズ系の兵を率いて進み、1041年頃にケルマーンとマクラーンでブワイフ朝の軍を破った。ただし、その攻撃の一部は翌年頃にアブー・カリジャールによって退けられた。数年後には自ら5000人から6000人の軍を率いて北ケルマーンへ向かった。ブワイフ朝の総督バフラーム・イブン・ラシュカリスターンは抗しきれずバルダシールへ退き、1048年には庇護を求めて町を明け渡した。カーヴルトはこの頃に独自の政権の基礎を築き、トゥグリルに従う統治者となった。これを排除しようとしたアブー・カリジャールは進軍中に死去し、その軍も撤退した。
南ケルマーンのガルムシールはクフスと呼ばれる集団が押さえていた。カーヴルトはケルマーン東方の山地でこれを攻撃し、その多くを倒して南部も手中に収めた。続いてホルムズの君主バドル・イーサーも服従した。1059年、イブラーヒーム・イナールの反乱で窮地にあったトゥグリルがチャグリーに救援を求めると、カーヴルトは兄弟のアルプ・アルスラーン、ヤークーティーとともに派遣された。両軍はライ付近で戦い、敗れたイブラーヒームとその甥たちは捕虜となった。
ケルマーンの外ではファールスにも進出し、シーラーズを支配したファドルーヤと争った。ファドルーヤは統治者の地位を保つため、アルプ・アルスラーンに毎年2700万ディルハムの貢納を約束して支持を求めた。カーヴルトは弟の軍に敗れて逃れ、忠実な配下たちは投獄され、ファールスの領地を失った。一方、1062年にはトルコ人兵士やダイラム人によってシーラーズ周辺を引き渡され、ファドルーヤを破って同地へ戻った。金曜礼拝では伯父トゥグリルの名を唱えさせ、贈り物も送った。翌年には4000人のトルコ人兵を率い、2万人のダイラム人を伴って進むファドルーヤを再び破り、多くの捕虜を得た。
1063年、伯父トゥグリルが子を残さず死去すると、カーヴルトも後継者の地位を望んだが、スルタンとなったのは弟アルプ・アルスラーンであった。カーヴルトは自らもスルタンを称し、弟と争った。1072年に弟が死去して甥マリク・シャーが継ぐと、この継承にも反対して反乱を起こした。ハマダーン近郊で甥の軍に大敗し、捕らえられて処刑された。その最期は1073年とも1074年ともいわれる。息子たちはケルマーンの支配を認められたものの、大セルジューク朝に従うこととなった。のちに孫アルスラーン・シャー1世の時代、ケルマーンの王朝は全盛期を迎えた。
同じ年に亡くなった人物
- Theodosius of Kyiv (1074年没)
- Ibn al-Wafid (1074年没)
- ペタル・クレシミル4世 (1074年没)
- アンリ・ド・ブルゴーニュ (1074年没)
- ヘルマン1世・フォン・バーデン (1074年没)
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