伝記
ヒエロニュモスは、古代ギリシアの都市カルディアの出身で、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)たちの時代を生きた歴史家である。生年は紀元前360年ごろ、没年は紀元前255年ごろとされるが、いずれも確かではない。トラキア半島のカルディアに生まれ、同郷のエウメネスに仕えた。エウメネスとは元々親友だったとも縁戚だったともいわれるが、詳細は不明である。マケドニアの行政で書記を務めたとする説があり、それが公文書への深い知識を説明するとされる。大王の死のときバビロンに居合わせた可能性もある。
大王の死後もヒエロニュモスはエウメネスのもとにとどまり、カッパドキアの任地で彼に合流したとみられる。名が古代の文献に初めて現れるのは紀元前320年で、カッパドキアのノラ包囲のさなかに使節としてマケドニアのアンティパトロスのもとへ赴いた。翌紀元前319年にアンティパトロスが没すると、独眼のアンティゴノスとの交渉の先頭に立ったが、実らなかった。続くアンティゴノスとエウメネスの争いでも同郷の人への忠誠を守り、紀元前316年のガビエネの戦いでは自らも負傷した。この戦いでエウメネスは敗れて命を落とし、ヒエロニュモスはアンティゴノスの捕虜となった。
アンティゴノスは過去の忠誠を咎めず、死海のアスファルトの採取事業を彼に委ねた。だが、アラビア人の諸部族の脅威のためにこの任務は長く続かなかった。その後はアンティゴノスの子デメトリオスに仕え、紀元前312年のガザの戦いや紀元前306年のキプロス島のサラミスの海戦に幕僚として加わった可能性がある。紀元前301年のイプソスの戦いも、プルタルコスの記述を目撃者の証言と読めば、その場にいたことになる。紀元前293年、テーバイを占領したデメトリオスは彼をボイオティアの総督に任じた。デメトリオスがマケドニアの王位を手放した紀元前286年以後は、その子アンティゴノス・ゴナタスの顧問として仕えた。高齢ながら、ピュロスに対する紀元前275年から272年の遠征にも加わったと考えられている。
晩年の約20年は、ディアドコイの歴史の執筆に費やされたらしい。ピュロスの死後に筆を起こしたとされる『後継者史』は、アンティゴノス朝の記憶を称えるもので、大王の死からピュロスの死までを扱った。ディアドコイ戦争を知る唯一の同時代史であったが、原著は失われて断片が残るのみである。内容はシケリアのディオドロスの著作を通じて伝わり、プルタルコスの『エウメネス伝』『デメトリオス伝』『ピュロス伝』、トログス・ポンペイウスの史書、アッリアノスの著作の主な典拠でもあった。多くの研究者はディオドロスの直接の典拠と見る。
この書は、先に出たサモスのドゥリスの『マケドニア史』への反発から書かれたらしい。ドゥリスの叙述は歴史というより悲劇的だと見て、自らはディアドコイと身近に接した証人として優れると考えたようである。一方でピュロスと、カルディアを破壊したリュシマコスへの敵意は、文中に明らかだという。公文書を多数取り入れ、詳細な注釈を加えたと推測され、戦術の長い叙述に加え、エウメネスを好意的に描く叙事詩的な部分もあったとみられる。文体はアウグストゥス時代の一部の識者から低く見られたが、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、ローマ史を叙述した最初期のギリシア人著者のひとりと評している。アンティゴノスを最強の者、エウメネスをその唯一の対抗者とする、今日まで続くディアドコイ戦争の人物評には、両者に仕えた彼の著述の影響が大きいといわれる。ゴナタスの宮廷で104歳で没したとも伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前 250年(推定))
- ガイウス・クラウディウス・ケント (紀元前 250年(推定))
- ナウシパネス (紀元前250)
- 孝文王 (紀元前250年没)
- Abantidas (紀元前250)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルギオス1世 (ギリシャ王) (1913年没)
- ピリッポス1世 (マケドニア王) (紀元前602年没)
- アガソナス・ヤコヴィディス (2020年没)
- アルケラオス1世 (紀元前399年没)
- グレゴリオス・パラマス (1359年没)