HISTORICAL PERSON · 紀元前250年没

孝文王

戦国時代の秦の第29代君主で、即位前は安国君。昭襄王の太子となり、呂不韋の助言を受けた華陽夫人の養子とした子の異人を後継に指名した。前250年に正式に即位したが、3日後に53歳で薨去した。

生涯
紀元前250年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

孝文王は、中国戦国時代の秦の第29代君主で、第4代の秦王である。姓は嬴、諱は柱といい、即位前は安国君と称した。昭襄王と唐八子(のちの唐太后)の子で、宣太后の孫にあたる。即位から3日で亡くなったため、在位は極めて短く、「1年に満たない王」として知られる。没年は紀元前250年で、没したときは53歳だったとされる。

昭襄王40年(紀元前267年)、昭襄王の長子で、人質として魏にいた悼太子が亡くなった。その2年後の昭襄王42年(紀元前265年)に、安国君が後継の太子に選ばれた。安国君には20人以上の子があり、その一人に、のちに太子となる異人がいた。異人の母の夏姫は安国君に気に入られなくなっており、異人は趙へ人質として出されて、見捨てられた存在のようだったという。これを見かけた大商人の呂不韋が異人に投資して、趙での名声を高めさせた。呂不韋は、子のいない安国君の夫人の華陽夫人に、名声ある異人を養子に迎えるよう助言した。華陽夫人がそれを安国君に伝え、安国君は異人を太子に指名した。別の記述では、呂不韋が異人の名で華陽夫人に多くの贈り物を届けて説得し、安国君が承諾の証として符を異人に渡したともいう。

その後、秦が昭襄王49年から50年(紀元前258年から257年)にかけて趙の都の邯鄲を攻めたとき、異人は処刑されかけたが、呂不韋の手引きで邯鄲を脱し、秦に帰国した。異人は華陽夫人と面会し、名を子楚と改めた。

昭襄王56年(紀元前251年)閏9月、父の昭襄王が亡くなり、安国君が孝文王として立った。華陽夫人は華陽后となり、子楚は太子となった。母の唐八子には唐太后の諡号が贈られた。孝文王元年(紀元前250年)10月己亥、父の喪が明けて正式に即位したが、そのわずか3日後に薨去した。父の昭襄王が50年以上在位していたため、即位したときにはすでにかなりの高齢だったことが、短い治世の理由として最も有力な説とされる。

これとは別に、呂不韋が王を毒殺した、あるいは死を早めて次の荘襄王を即位させたとする陰謀説もある。荘襄王の治世も3年ほどと短かったことが、この説の根拠として挙げられ、さらに荘襄王の子とされる政(のちの始皇帝)が実は呂不韋の子で、その即位まで呂不韋の策が続いたという話まで語られる。ただし、いずれも確かな事実としては示されておらず、真相は分からない。孝文王の子には、荘襄王のほか庶子の子傒らがおり、子は20人前後とされる。記録の主な拠り所は『史記』の秦本紀である。

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