伝記
ブルガリアのカタリナ(エカテリニ)は、ビザンツ皇帝イサキオス1世コムネノスの皇后である。1010年ごろ、あるいは1005年から1010年の間にブルガリアで生まれ、1063年に没したとされるが、1059年以後に没したとのみ記されることもある。最後のブルガリア皇帝イヴァン・ヴラディスラフと皇后マリアの娘で、プレシアンとアルシアンの姉妹にあたり、マリア(ブルガリアのマリア)の父方の叔母でもあった。
父イヴァン・ヴラディスラフの在位は1015年から1018年である。ブルガリア王国はビザンツ帝国と長く戦いを続けていたが、軍が敗れて皇帝が亡くなると王国は滅び、一家はビザンツ軍に捕らえられた。カタリナは捕虜としてカストリアに着き、1019年にほかの家族とともにビザンツ皇帝のもとへ差し出されたとされる。それでも皇帝は一家をよく扱い、カタリナらに名誉称号を与えた。父が皇帝になったとき、娘にアウグスタの称号を与えたという話もある。カタリナという名は生まれたときのものではなく、イサキオスと結婚してから名乗ったものかもしれない。外国から来た王女が有力なビザンツの家に嫁ぐときに名を改めることは珍しくなく、カタリナという名自体が当時まれだったとも考えられている。
夫となるイサキオス・コムネノスは、将軍マヌエル・エロティコス・コムネノスの子で、宮廷に属していた。弟ヨハネスとともに修道院で教育を受けたとされる。外国の王女が宮廷の人間に嫁ぐ慣習があったことから、カタリナがイサキオスの妻に選ばれたと説明される。二人のあいだには少なくとも二人の子があった。長男マヌエルは1030年ごろに生まれ、1042年から1057年のあいだに亡くなった。高位の官人ヘリオスの娘と婚約していたとされる。長女マリア・コムネネは1034年ごろの生まれで、その美しさは歴史家ミカエル・プセロスに記されたが、生涯結婚しなかった。
1057年、軍事的な反乱を経てイサキオスが帝位に就くと、カタリナは皇后となり、夫によってアウグスタに引き上げられた。この反乱のあいだ、カタリナは夫の兄弟ヨハネスの保護下に置かれた。ほかにも皇帝候補は考えられたが、イサキオスは軍の大半の支持を得て競争相手を退けたという。皇后は敬虔で教養があり、宮廷で比較的大きな自由と自律を持ち、自分の財産や時間を思うように使えたとされる。宴や儀式を取りしきり、外国からの客を迎える際には皇帝を助けた。ただしこれらは当時の皇后一般についての説明で、カタリナ個人の具体的な働きはほとんど記されていない。
イサキオスは1059年11月22日に退位した。軍事と官僚機構にわたる改革が多くの人の反感を買ったことなどが理由として挙げられる。夫はストゥディオス修道院に隠退し、1060年末か1061年に没するまで修道士として過ごした。カタリナは退位後しばらく、新帝コンスタンティノス10世とともに統治にあたったらしい。しかしやがて自らもミュレライオン修道院に退き、クセネという修道名を名乗った。娘のマリアも母とともにそこへ移った。
同じ年に亡くなった人物
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- グリフィズ・アプ・サウェリン (1063年没)
- ラミロ1世 (アラゴン王) (1063年没)
- トゥグリル・ベグ (1063年没)
- クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイール (1063年没)
同じ地域に関係する人物
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- オットーネ・オルセオロ (1032年没)
- バーキー (1600年没)
- アールモシュ (1129年没)
- マヌエル2世パレオロゴス (1425年没)