HISTORICAL PERSON · 1060年没

梅尭臣

北宋中期の詩人・官僚。科挙に及第せず任子で官途に就き、生涯貧しかった。平淡を旨とし身近な題材を詠み、親友欧陽脩と交わった。詩集『宛陵集』60巻があり、蘇舜欽と並び「蘇梅」と称される。

生涯
1060年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 開封市)
出生地
中華人民共和国(宣城市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

梅尭臣は、中国北宋中期の詩人・官僚である。字は聖兪。宣州宛陵県(現在の安徽省宣城市宣州区)の人で、出身地から梅宛陵・宛陵先生とも呼ばれ、最終の官名が尚書都官員外郎であったことから梅都官とも呼ばれる。咸平5年(1002年)、梅譲のおそらく庶子として生まれた。母は束氏とも張氏ともいわれる。梅家は代々官僚とは無縁の家柄だったが、叔父の梅詢だけは翰林侍読学士という高官に就いており、13歳になるとその叔父のもとで詩文を学んだと思われる。

26歳で太子賓客の娘の謝氏と結婚した。謝家は欧陽脩・王安石・黄庭堅などとつながる名家であり、前途は洋々かと思われた。しかし梅尭臣は科挙に及第できず、29歳のとき、梅詢の功績にあやかる任子という制度によって官途に就いた。宋代の官僚任用は科挙が基本であったため、この出発は不利に働いた。出世の遅さは、妻に「鮎魚(なまず)が竹竿を上るように」まどろっこしいと嘆かせるほどで、生涯の貧困も余儀なくされた。

最初の役職は太廟斎郎で、ほどなく桐城県の主簿を経て、30歳のころ河南(洛陽)の主簿に転じた。ここで洛陽留守の銭惟演に詩才を激賞され、多くの文人・詩人と知り合う。生涯の親友であり文学の同志で、のちにはパトロンともなった欧陽脩と出会ったのもこのときである。その後も河陽主簿、徳興県の県令、建徳県・襄城県の知県、呉興の監税官と地方官を転々とした。慶暦4年(1044年)、43歳で都の汴京へ帰る途中、高郵の船の中で妻の謝氏を亡くし、同じ月のうちに次男の十十も失った。この不幸が作風に新たな展開を与えたとされる。2年後に刁渭の娘と再婚した。

その後も節度判官などの地方官を務め、皇祐元年(1049年)には父梅譲の死による服喪もあって、低い官位のまま生活は苦しかった。それでも皇祐3年(1051年)に同進士出身を賜り、太常博士となった。50歳にしてようやく道が開けたかに見えた。母束氏の喪に服した後、嘉祐2年(1057年)に欧陽脩らの推薦で国子監直講となり、翌年には知貢挙となった欧陽脩のもとで小試官を務めた。このとき及第した者には蘇軾・蘇轍兄弟や曾鞏がいる。嘉祐5年(1060年)、尚書都官員外郎に至ったが、京師で流行した疫病に倒れ、4月17日に病み、同月25日に59歳で世を去った。住まいの汴陽坊は庶民の暮らす下町で、大官が車馬を連ねて弔問に訪れる様子に近所の人々が驚いたと、欧陽脩の墓誌銘は伝えている。子には長男の梅増のほか、夭折した次男の十十と、2人の娘がいた。

詩では平淡を旨とし、晩唐以来流行した西崑体の、華麗さに偏って難解になりがちな詩風に反対した。犬猫や蝿、ミミズ、農具など身近な物を題材にし、事物に仮託して議論を行うことも多い。「陶工」の詩では、貧しい働き手が成果を富者に奪われる姿を描いた。また『宛陵集』の「祭猫」は猫の葬式を詠んだ作として知られる。地方官の経験が長かったため、世の矛盾を辛辣に批判する社会派の詩も多く、初期にはそうした作が目立ち、のちには日常の暮らしや亡き妻子を悼む詩へ向かったといわれる。現存する詩は約3000首で、『宛陵集』60巻にまとめられた。『新唐書』の編纂にも関わり、『孫子』の注13篇や『続金針詩格』1巻も著した。その詩風は「かめばかむほど味が出る」と評される一方、派手さがなくわかりにくいとの批判もある。蘇舜欽とともに「蘇梅」と並称される。

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